開かれた目という種 復活節第3主日(ルカ23・13〜35)

リーダーシップを日頃からとる人が突然いなくなると、それまで機能していた物事がうまく行かない、と言う事があるのではないでしょうか。一人ひとりを導く人の大切さは、その人がいなくなって実感することではないかと思います。

きょうのみことばは、エマオに向かう2人の弟子にイエス様が近づかれるという場面です。2人は、イエス様が墓からいなくなったという知らせを聞いて非常にショックを受けて、エルサレムを離れてエマオに向かって歩いていたのです。もしかしたらイエス様が自分たちのメシアではなかったのだろうか、イエス様がいなくなった後自分たちがこれからどうすればいいのか、自分たちを導いてくれる指導者、ローマからの支配から解放してくれるような指導者はいないのだろうか、と話していたのかもしれません。

そのようなことを話し合っている時に、イエス様は彼らに近づかれ「歩きながら、語り合っているその話は何のことですか」と声をかけらます。彼らは、イエス様がいなくなったことを知り、落ち込んでいたでしょうからあまり大きな声で話していなかったと思うのです。イエス様は、そんな彼らの方に近づいてきて、一緒に歩き始められます。このことは、今もイエス様が私たちの所にきてくださる、それも一緒に歩いてくださる距離まで近づいてくださっている、ということを気づかせてくださるのではないでしょうか。2人の弟子は、せっかくイエス様が近づいてくださったのに【目が遮られて】いてイエス様に気づく事ができませんでした。時々、私たちも弟子たちのように、目が遮られていてそばにいるイエス様に気づかずにいるかもしれませんね。

イエス様に声をかけられて彼らは、暗い顔をして立ち止まります。この一節からは、彼らが失望し、迷い、悔しさなどの気持ちが痛いほどわかるのではないでしょうか。彼らの1人クレオパがイエス様に答えます。ちなみに、彼の妻は、イエス様が十字架に架けられた時に他の婦人たちと一緒にいた1人「クロパの妻」(ヨハネ19・25)のようですから、普段からイエス様とは親交があったのではないでしょうか。そのためイエス様が墓からいなくなったことを聞いたショックは、深いものがあったことはでしょう。彼は、「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、知らないのですか」と答えます。彼らにとってこの事件は、一大ニュースであり、自分たちの生活を左右する程のものだったのです。そのような出来事を知らない人がいると言う事が不思議に思ったのではないでしょうか。

イエス様は、彼に「どんなことですか」と尋ねられます。イエス様は、今まで道すがら彼らの話が聞こえていただけではなく、しっかりと彼らの話を聴くために尋ねられたのでしょう。彼らは「ナザレのイエスのことです。この方は神と民全体の前で、行いにおいても言葉においても力ある預言者でした。」とエルサレムで起こった出来事を話し始めます。彼らにとってイエス様は、預言者でしたし、偉大な指導者だったのです。そのイエス様が十字架に掛けられただけではなく、婦人たちからは、葬られた墓も空になっていて、み使いたちの幻が現れて「イエスは生きておられる」と告げられたということを耳にしたのです。

きっと、彼らは、その日の出来事がまだ信じられない状態だったのではないでしょうか。私たちは頭の中で整理ができない状態を声に出して誰かに話す時、何かしらのヒントを得る事があるのではないでしょうか。私たちは自分が抱えている、生活や仕事のこと、人間関係のことなど頭の中で悶々と考えるより、誰かに相談する事ですっきりしたり、物事が解決しないけれど心に平安を取り戻したりする事があります。イエス様の「どんなことですか」という言葉かけは、彼らの気持ちを「聴きますよ」という意味が含まれていたのではないでしょうか。

イエス様は、彼らが話し終えた時に、「物分かりが悪く、……心の鈍い者たち……」と言われて彼らに、ご自分のことが書かれてある聖書を説明されます。彼らはイエス様の聖書の話をもっとゆっくりと話したいと思ったのでしょう。彼らは、イエス様を引き留め一緒に泊まってイエス様との時間を過ごそうとします。ここで、イエス様は、彼らと共に食卓に着かれパン取り、賛美を捧げて、裂いて彼らに渡されます。この時ようやく彼らの目が開かれ、この方がイエス様であることを気づきます。彼らは、イエス様の話を聴いて心を熱くし、イエス様がなさったパンを裂く場面を見て、イエス様が自分たちに前にも同じようなことをしてくださったということを思い出したのです。

彼らは、この喜びを他の弟子たちに知らせたくて、日が暮れていたのにも関わらずエルサレムに向かいます。彼らは、イエス様に出会ったシモンや他の弟子たちに加わって自分たちが体験した復活されたイエス様のことを分かち合います。彼らは、もう暗い顔をしていませんでした。目が開かれたことによってイエス様を見つめる事ができ、迷うことなく歩み始める事ができたのです。私たちは、彼らのように「遮られた目」ではなく「開かれた目」でイエス様を見つめ、喜びを持ってイエス様の復活を周りの人と分かち合う事ができたらいいですね。

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