19. 草創期の聖パウロ――福者ジャッカルド神父の生涯

聖パウロ会入会以後は、ピノトゥという記述をジャッカルドという名前に変えることにする。入会直後のジャッカルドの生活について多くの文献に出ているが、本書では、1917年から19年までの『ジャッカルド神父の日記(IL Diario del sig.Maestro don Timoteo Giaccardo )』と、1916年から25年までの聖パウロ会の初期の歩みがアルベリオーネ神父やジャッカルド神父や協力者たちによって記述され、これを集大成した、 1290ページに及ぶ『パウロ家の春(la Primavera Paolina)』などを主な原典とした。入会直後のジャッカルドの生活は、「魚が水を得た」ように、聖パウロ会の精神や信心や雰囲気になじみ、アルベリオーネ神父の片腕となって若者たちの教育と指導に当たり、ゲラ刷りを校正し、会計係もし、新聞に記事を書き、それに加えて、司祭になるための神学課程を続けて修めなければならなかった。そのころの生活を、ジャッカルドは次のように書いている。

朝食・昼食・夕食の時には全員、神父様を囲んで同じテーブルに座っていました。同じ食べ物をいただき、同じ鍋からスープをつぎ、一皿に盛った料理を分け合いました。神父様と連れ立って印刷所へ行って働き、一緒に掃除し、薪を運び、印刷用紙を移動させていました。この修道院には女性が一人もいない時もありました。それで、若者たちはアルベリオーネ神父と一緒に皿や食器を洗っていました。

若者たちがストーブの周りに集まって教科書を開き、いろんな主義主張やラテン語の問題集について、神父様から一度ならず教わったことがあります。神父様は教えながら、印刷所での仕事を終えた若者たちのため、労働物のように……腹を空かして昼食に帰ってきた若者たちのために、トウモロコシの粉を熱湯でかき混ぜていました。(注、これはポレンタというイタリア料理で、当時は貧しい人の食物とされていた)。……神父様は、私が勉強と授業で過労気味になるのを気遣って、夜は栗を食べさせずに、卵を持ってきてくださいます。昼食にポレンタの出る日には、私にとてもおいしいスープを与えてくださるのです……。

神父様の食べ物はありふれたものです。私たちと一緒に同じ物を食べています。昼食後のコーヒー一杯は例外ですが、それさえ必要やむを得ないものでした。神父様は決まって、最後にスープ……果物……を自分の皿に入れていました。その子どもたちに先に取らせるのが当たり前になっていたのです。(神父様は)残り物があれば、それを取っていました。夕食に栗の残り物がなければ、スープとパンだけでよしとしていました。

ところで、アルベリオーネ神父とジャッカルドと他の若者たちとの関係が、すべてうまく行っていたわけではない。月には陽の当たる面と陰の面ができるのと同様に、この修道院にも陰の面、いわゆる不都合な面が出てきた。ジャッカルドは長年、神学校生活の型にはまっていたので、臨機応変な対応が難しかった。神学校では、時間割りと規律を几帳面に守っていれば、隣人との摩擦をさほど起こさなかった。

しかし、3年前に創立されたばかりの聖パウロ会では、しばしば時間割りは変わるし、とっさの指針に従って、これから皆で作り上げていかなければならない。模倣とすべき先例もなければ伝統もない。何もないところから聖パウロ会独自のカラー・精神風土を作り出すため、創立者を中心とした各人の創造性し自発性と融通性が求められているのである。ジャッカルドは、大人になって、しかも神学校から横滑りに聖パウロ会に入会した上に、最初からマエストロ(先生)の地位につかされた。マエストロの職務権限として、創立者の意図した「授業」という範囲内に留まっていれば問題はなかった。しかし、若者の「生活指導」にまで踏み込めば、摩擦は避けられなくなる。ジャッカルドはフレッシュマン特有の熱意に駆られて、ついつい規律や時間割りや経営管理や使徒職などに介入するまでになった。ジャッカルドのような人望ある人から神学校仕込みの指導をされれば、まだ子どもっぽい人たちの本来の進路を変えさせるのはわけない。

古参の人たちは、この危険に気づいて、だれの言うことを聞けばよいのか……、どのように振る舞えばよいのかアルベリオーネ神父に不平を言い始めた。そしてついには、「ジャッカルドを神学校に送り返したに、私たちは、いっそう団結し、いっそう進歩できる」とさえ言い出す人たちも出てきたのである。

これは明らかに言い過ぎであった。だれにしても、今まで親しんできた生活習慣や意識を一度に変えるのは無理である。アルベリオーネ神父は、カノニコ・キエザ神父に相談した後、ジャッカルドから聖パウロ会の新しい生活に適応しない点、つまり規律偏重の形式主義的な点を取り除く一方で、新しい事業にチャレンジする進取の気性、有期、快活、創意・工夫、特に周りの人の生き方から学ぶ謙虚さなどを身につけさせるように手伝った。

こうしてアルベリオーネ神父の理解ある包容力と矯正およびジャッカルドの謙虚な従順によって、ほどなくこの摩擦は解消され、両者の二人三脚によって、あらゆる面で見事な進展が見られた。すなわち、ジャッカルドが若気の至りを反省して真剣に自己刷新を行い、新しい企画・事業に協力したお陰で、アルベリオーネ神父は事業の拡張を計り、創立から3年目の1917年の暮れまでに新しい印刷機械を一台購入し、教会報の部数と書籍発行の点数を倍増し、小さな書店を開いたのである。

・池田敏雄『マスコミの使徒 福者ジャッカルド神父』1993年

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