信仰の目、心の目で見るという種 復活の主日(ヨハネ20・1〜9)

寒い冬を超えた春は四季の中で色々考えさせられる季節です。冬の間は枯れて一枚の葉も無かった木々が、春になると緑の葉でいっぱいにします。地面からは、タンポポが生えて黄色い花を咲かせます。私たち人間が慌てふためき、不安に思っていても、社会がどのように変化しても変わらずその時々の季節のリズムで自然は営まれています。これも、大きなおん父の愛と言っていいでしょう。

きょうのみことばは、イエス様が復活された朝の出来事です。みことばの最初の一節は、「週の初めの日の朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行き、墓から石が取り除かれているのを見た。」という言葉から始まっています。ユダヤでは、土曜日をサバトと言って「安息日」となっていて、私たちが言うところのお休みの日となります。このみことばの「週の初め」というのは、日曜日のことを指しています。それは、ちょうどイエス様が亡くなられて3日目の朝でした。マグダラのマリアは、その3日目の朝早く墓に何をしに行ったのでしょう。ルカ福音書には、「婦人たちは用意していた香料を持って墓に来た」(ルカ24・1)となっていますので、イエス様に油を塗るために行ったのでしょう。ユダヤでは、人が亡くなると3日間は、その人の霊が肉体の周りにいて4日目に立ち去ると考えられていたようです。「ラザロの復活」のときに、マルタがイエス様に「主よ、もう臭くなっています。4日目ですから。」(ヨハネ11・39)と言ったのは魂がラザロから離れて行って肉体が腐敗し始めていたことを言ったのかもしれません。それで、マグダラのマリアは、イエス様の魂が立ち去る前に香料を塗るために墓に行ったのではないでしょうか。

ヨハネ福音書の復活の場面では、マグダラのマリアが最初に登場しますが、彼女がペトロともう1人の弟子のところに行った時には、「誰かが主を墓から取り去りました。どこに置いたのかわたしたちには分かりません」と複数になっています。このことは、ルカ福音書を見ますと「マグダラのマリアとヨハナ、そしてヤコブの母マリアであった」(ルカ24・10)とありマルコ福音書では「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、そしてサロメは香料を買った」(マルコ16・1)とありますので彼女たちがイエス様の墓に香料を塗るために行ったのでしょう。

不思議なものですが、イエス様が復活された朝は、イエス様から選ばれた弟子たちは、ほとんど登場してきていません。彼らは、婦人たちがイエス様の墓が空になっているという知らせを聞いてから動き始めます。ルカ福音書では「使徒たちには、この話がたわごとのように思われたので、彼女たちを信用しなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓に走った」(ルカ24・11〜12)となっていますが、マタイ福音書とマルコ福音書には、弟子たちが墓に行ったという記事は書かれてありません。このように、見てみますと弟子たちは、自分たちがイエス様から逃げてしまったという負い目を感じていたのかもしれません。ここに女性と男性のイエス様を慕うという違いが出ていているのではないでしょうか。

さて、ペトロと(ヨハネと言われている)もう一人の弟子は、マグダラのマリアの知らせを聞いて墓に走って行きます。ただ、ヨハネの方が若かったからなのか、それともイエス様からマリア様を託されたという責任感があったからなのか(ヨハネ19・27)はわかりませんが、ヨハネの方が先に墓に着きます。ヨハネ福音書では、ヨハネのことを「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」と度々表しています。イエス様は、もちろんペトロも含めて他の弟子たちも愛されていたのでしょうが、ヨハネのことを可愛がっていたのかもしれません。

まず、ヨハネは先に墓について身をかがめてのぞき込むと、亜麻布が平になっているのを見ます。次にペトロは墓に入ってよく見ると、「亜麻布が平らになっており、イエスの頭を包んでいた布切れが、亜麻布と一緒に平らになっておらず、元の所に巻いたままになって」いました。彼らは、【空の墓】と常識では考えられない亜麻布ともう一つの布の状態を見たのです。イエス様が復活している様子を見た弟子たちはを含めて誰一人もいませんし、四福音書にも記されていません。それでも弟子たちは、イエス様が復活したということを信じて、悟っていきます。ヨハネ福音書は、イエス様が復活した後に、弟子に会われた時のことが他の福音書に比べると詳しく書かれてありますし、イエス様が復活したことを信じなかった弟子たちが信じて行く様子を細かく表しています。

ヨハネ福音書では、「もう一人の弟子も中に入ってきて、見て、信じた」とありますように、イエス様が復活したことを信じるために【見る】とことが一つの鍵となるのではないでしょうか。きょうのみことばの中には、度々【見る】という単語が出てきますが、もう一人の弟子がイエス様の復活を信じることができた【見る】は、心の目、霊的な信仰の目で【見る】という「エイドン」というギリシャ語の単語が使われているそうです。私たちは、ヨハネのように心の目、信仰の目で見る時、イエス様の復活を信じることができるのではないでしょうか。私たちは、イエス様に「あなたの復活を信じることができる【心の目】、【信仰の目】をください」と祈ることができたらいいですね。

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