愛の沈黙という種 受難の主日(マタイ17・11〜54)

きょうの典礼は、「受難の主日」でイエス様がおん父のみ旨を成就されるクライマックスの場面です。

みことばは、イエス様がピラト総督の前に連れられてきた場面から始まります。イエス様は、ピラトから「お前はユダヤ人の王か」という質問に対して「それは、あなたが言っていることである」と言われます。この言葉を最後にイエス様は、息を引き取る間際まで一言も話されず長い【沈黙】守られます。

ピラトは、イエス様が祭司長や長老たちの妬みから訴えられていることを知っていたので、イエス様を救おうとしてバラバ・イエスを引き合いにして群集にどちらを釈放するかを尋ねます。彼らは、祭司長や長老たちにそそのかせれてイエス様に対して「十字架につけろ」と言います。彼らは、ほんの何日間か前に「ダビデの子にホサンナ。……いと高き所にホサンナ」(マタイ21・9)と言ってエルサレムに入られたイエス様を祝福した人たちでした。そんな彼らが今度は、イエス様に対して「十字架につけろ」と言っているのです。この変わり方は、そそのかされたからと言っても本当に恐ろしいことです。

さらにピラトは、彼の妻から「あの正しい人と関わりを持たないでください。」と言われたので、イエス様を助けようとしますが、群衆の反対にあいもう自分には責任がないことを示すために彼らの前で「手を洗い」ます。群集は、「その男の血は、われわれとわれわれの子孫の上に」とピラトに言います。不思議なことに、ローマ人であるピラトや彼の妻が【正しい人】とイエス様を認めているのにも関わらず同じユダヤ人である群衆がイエス様をメシアと認めていなかったのです。

ピラトは、イエス様を兵士たちに引き渡し鞭を打たせます。この鞭は、皮の先に鋲(びょう)が付いていて一振りするだけで皮膚が裂けるようになったもので、これによって罪人の死を早めていたようです。イエス様は、何度も兵士たちから鞭を打たれた上に、王が着る赤いマントを着せられ、王冠の代わりにいばらの冠をかぶせられ、しゃくの代わりに葦の棒を持たせられて、「ユダヤ人の王さま、万歳」とからかわれ、なぶりものにされます。それだけではくつばを吐きかけられ、葦の棒で頭を殴られるのです。イエス様は、彼らのひどい仕打ちに対しても一言も発せられず【沈黙】を守られていました。

イエス様は、マントをはぎ取られもとの衣を着せられ十字架につけるために引き出されます。そのとき、兵士たちは、シモンというキレネ人にイエス様の十字架を無理やり担わせます。イエス様は、自分が担うはずの十字架をシモンが担がされるのをご覧になりどのようなお気持ちになられたのでしょうか。みことばには書かれていませんが、きっと「ありがとう、すまないね」と思われたのかもしれません。私たちは、生活の中でイエス様の十字架をシモンのように担わされているのではないでしょうか。そのようなとき、「どうして私がこんなに苦しまなければ」と思いたくなりますが、「あっ、イエス様の十字架を一緒に担っているのだ」と気づくことができたらいいですね。

イエス様は、「ゴルゴタ、髑髏(されこうべ)の場所」という所に着きます。ここは、エルサレムの城壁の外にありました。イエス様は、麻酔の効果がある胆汁を混ぜたぶどう酒を兵士から飲まされようとしますが、なめただけで飲まれませんでした。このぶどう酒は、敬虔な婦人たちがイエス様の苦しみを和らげようとしてあらかじめ準備していたようです。イエス様は彼女たちのその気持ちに応えられてなめられ、飲み干して痛みを和らげようとはされず、これからの苦しみを最後まで耐えようと思われたのではないでしょうか。

イエス様は、十字架につけられ、人々や祭司長たちから「……もし神の子なら、自分を救ってみろ。」とか「十字架から降りてみるがよい。そうすれば、われわれは信じてやろう」と嘲られます。イエス様は、このような言葉を宣教される前に荒れ野で悪魔の試みに遭われた時にも「もし神の子なら」と言われています。正午になり闇が全地を覆います。この【闇】は悪の力を表しているようです。悪魔は、イエス様の最期に至るまで力を誇示しようとします。

イエス様は、ご自分が息を引き取る時がきたことを知り、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と初めて長い【沈黙】を破られ言葉を発せられます。これは、一見おん父へ嘆きのように思われますが、この詩編は「わたしの魂は主のために生き。……主の正しさ、主の業を、告げるでしょう。」(詩編22)というおん父への賛美の言葉で結ばれています。イエス様は、ご自分がおん父のみ旨を果たされたことを感謝の祈りを捧げられたのではないでしょか。

マタイ福音書でのイエス様は、ご自分が一番苦しまれたこの十字架への道を、【沈黙】のうちに歩まれます。これは、私たちを【救う】という愛の現れではないでしょうか。私たちは、ここまで愛してくださったイエス様に感謝するとともに、イエス様が担われた十字架、【私の十字架】をイエス様と一緒に最後まで担わせてください、と祈りながら歩むことができたらいいですね。

あなたにオススメ