17. 聖パウロ会に入会の日――福者ジャッカルド神父の生涯

1917年(大正6年)7月、神学2年課程を終わったばかりの21歳のピノトゥは、当時「印刷学校」と呼ばれていた聖パウロ会初期の印刷所へ行った。そこには校正の仕事があったからである。「印刷学校」は、1914年7月4日、アルバ市バルアルディデイ通り(Via Baluarudi )二番地に移転した。

しかし「印刷学校」の移転に伴い、修道院は「印刷学校」と分離し、「印刷学校」移転の2ヵ月後の5月5日にアルバ郊外のモンカレット(Moncaretto)という大きな屋敷に移転した。当時九名の志願者は、日中は「印刷学校」で働き、夕方には修道院に帰り、勉強・信心などをしていた。ところが、この修道院も志願者の増加によって一年足らずで引き払うことになり、1916年4月24日には、十数名の志願者はアルバ市内のマッツィーニ通り(Via Mazzini )に移転した。

ピノトゥは、1917年7月4日、まずアルバ市バルアルディデイ通りの「印刷学校」で働くことにした。それはピノトゥ自身が書いているとおり、自分の働きで食事代を稼ぐためでもあった。ピノトゥにとっては、この日が聖パウロ会への事実上の入会記念日であった。彼は、祈りに加えて、機械の音や忙しく移動する足音を身近に感じながら、黙々とゲラ刷りに目を通し、赤鉛筆で校正を加えていた。ピノトゥは、「私たちは、出版使徒職の家で、イエス・キリストとマリアのためにすべてをささげ尽くそうという熱意と善意にあふれ、身近に神を感じています」と、胸の内を明かしている。そして夕方、マッツィーニ通りの修道院へ行ったが、この日の経緯を、ピノトゥは一年後に次のように述べている。

私がその家(注 「印刷学校」)に入ったのは、夕食前のことでした。その時私は、神父様に面会する代わりに(じっさい、私の聞いたところによると、神父様は学校で教えていたとのことでした)、夕食代を稼ぐため、すぐにもゲラ刷りを校正したかったのです……。祈りが終わって後に、神父様は志願者たちに私を紹介してくださり、私に「Maestro (マエストロ=先生)」という名をつけてくださいました。それから、私に「ひと言話たら」と勧めてくださいました。私は、準備していなかったので、話す気にはなれませんでした。
一年後に振り返ってみると、あの入会日が今日であれば、次のように話しただろうと思います。

「あなた方は私を『先生』と呼びますが、実際のところ、私は弟子なのです。この修道院の新米なのであり、つい先ほど入会した者ですから、あなた方皆から指導精神を学ばなくてはなりません。ですから、私は先輩ではなく、同僚であり、弟子なのです。神様がこの同僚に指導精神を吹き込んでくださるように、また『神父様』が私に命じることを立派に実行できるように祈ってください。私は『神父様』に余すところなく従いますので、私の決心一つひとつを必ず結実させるよう、祝福をお願いいたします」。(あの時)ひざまずいて神父様の手に接吻して、祝福を受ければよかったものを……。

・池田敏雄『マスコミの使徒 福者ジャッカルド神父』1993年

おしらせ
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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