愛するという種 年間第7主日(マタイ5・38〜48)

ヴィパッサナー(マインドフルネス)という瞑想の中に『いつくしみの瞑想』というものがあります。これは、まず自分自身に「私がアガペ(愛)の人になりますように」「私があらゆるとらわれから解放されますように」と心の中で唱えながら祈る、と同時に、自分が祈りたい人のことを思って、「○○さんがアガペ(愛)の人になりますように」「○○さんがあらゆるとらわれから解放されますように」と祈り、その時の感覚を味わうのです。特に他の人のことを思って祈るとき、例えば、苦手な人に対して祈るとき、自分の中で苦しい葛藤が生まれてくることもあります。自分の力では、どうすることもできないとき、そこに主への信頼が生まれてくることでしょう。

きょうのみことばは、イエス様が人々に一番大切な掟である【愛】について語られる場面です。最初にイエス様は、「あなた方も聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしはあなた方に言っておく。悪人に逆らってはならない。」と人々に教えられます。これは、「同害賠償」についての掟で、「相手から何か害を受けた場合、同じ賠償を行ってもいい。それ以上の賠償を求めてはならない」というものです。私たちは「目には目を、歯には歯を」という言葉を耳にすることでしょうが、「害を与えられた人には、報復してもいい、やり返さなければ撃たれ損だ」と普通の人なら考えてしまいます。

イエス様は、攻撃を与えた相手に対して「しかし、わたしはあなた方に言っておく。悪人に逆らってはならない。」と真逆のことを言われます。イエス様が言われる「悪人」というのは、自分に対して害を及ぼす人のことを言っているのではないでしょうか。その相手に対して逆らうだけではなく、「右の頬を打つ者には、ほかの頬も向けなさい」と言われます。パレスチナの人にとって「右の頬を打たれる」というのは、手のひらではなく手の甲で打たれることで、侮辱を表していたようです。肉体的に打たれるだけではなく、精神的な面でも傷を追うことを意味しているのです。イエス様は、精神的な傷を追わせられても、もう一方の頬をも差し出すことを人々に教えておられます。

続けて、自分を訴えている人に対しても「下着だけではなく、上着をも取らせなさい。無理にも1ミリオン(約1500メートル)歩かせようとする者とは、一緒に2ミリオン歩きなさい。」と言われます。これを聞いた人々は、どのように思ったのでしょうか。「そんなのは、お人好しすぎる、そこまでしなくてもいいのではないか。今まで、守っていた『目には目を、歯には歯を』の掟の方が楽でいいではないか」と思った人もいたのかも知れません。イエス様の教えは、どんなに自分が害を受けても、理不尽な要求を強要されても、それに対して【報復】ではなく「愛を持って対応しなさい」と言われているのです。イエス様は、『主の祈り』の中に「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」という1節があります。イエス様は、私たちが人をゆるすことが難しいことをご存知だったからではないでしょうか。「人を限りなく愛すること」と「人をゆるす」という事は同じことと言ってもいいでしょう。

さらにイエス様は、「あなた方も聞いているとおり、『あなたの隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしはあなた方に言っておく。あなた方の敵を愛し、あなた方を迫害する者のために祈りなさい。」と言われます。イエス様は、自分を愛してくれる人、自分に好意を持ってくれている人を愛するのではなく、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言われます。イエス様は「義のために迫害されている人は幸いである。」(マタイ5・10)と言われました。まさに、「敵を愛し、迫害する人のために祈れ」という教えは、イエス様が言われていることを具体的な形で実行することではないでしょうか。

イエス様は、「それは、天におられる父の子となるためである。」また、「天に父が完全であるように、あなた方も完全な者となりなさい」と言われます。イエス様は、私たちにかなりハードルが高い要求を伝えられます。私たちは、もうすでに「父の子」となっています。しかし、「天の父が完全であるように、あなた方も完全な者となりなさい」と言われるように、私たちはなることができるでしょうか。イエス様が言われる『山上の説教』は、キリスト者が信仰を深め、おん父のようになるための教えと言ってもいいでしょう。それだけに、イエス様からの要求は、厳しいもので、人の力だけでは不可能なことです。

きょうのみことばは、「たとえ理不尽な扱いを受けたとしても、相手を愛すること」「最も愛することが困難な、敵や迫害する人を愛すること」を私たちに示しています。パウロは、「あなた方は知らないのですか。あなた方は神の住まいであり、神の霊があなた方の中に住んでおられることを。」(1コリント3・16)と言っています。私たちの中にも、相手の中にも神の霊が住んでいると気づくとき、その人の中におられる三位一体の主を愛すること、思うとき少しは楽になるかも知れません。私たちの目標である「おん父」のようになることができるように祈ることができたらいいですね。

あなたにオススメ