主にささげるという種 主の奉献(ルカ2・22〜40)

日本の風習の中で「お宮参り」があります。これは、生まれてきた赤ちゃんを氏神様に祝福してもらうと同時に、お産の穢れを清めてもらうという意味があるようです。もちろん、赤ちゃんが無事に生まれたことへの感謝と健やかに育つようにという願いもあることでしょう。

きょうの典礼は、「主の奉献」でみことばは、イエス様が両親によってエルサレムの神殿に捧げられる場面が朗読されます。みことばの最初の節には、「モーセの律法に定められた、彼らの清めの日数が満ちると、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムに連れて行った。」とあります。イスラエルでもお産と言うものは、穢れと言う意味があったようようで、レビ記の中に「女が身籠もって男の子の場合、7日間汚れる。つまり月経による汚れの日数だけ汚れる。8日目にはその子の包皮に割礼が施される。産婦は血の清めのために33日の間籠り、清めの期間が満了するまで、聖なるものにいっさい触れてはならず、神殿にも入ってはならない。男の子のためであれ女の子のためであれ、清めの期間が満ちたとき、焼き尽くす捧げ物として1歳の雄の小羊と、贖罪の捧げ物として……祭司の所に持って行く。」(レビ記12・2〜6)と書かれてあります。マリア様とヨセフ様は、この律法に従ってマリア様ご自身の清めと、イエス様を主にささげるためにエルサレムの神殿に行ったのでした。

彼らが神殿に入るとシメオンという預言者に出会います。みことばは、「その時、エルサレムにシメオンという人がいた。……聖霊が彼の上にあった。彼はまた、主が遣わすメシアを見るまでは決して死なないとの、聖霊のお告げを受けていた。彼は霊に導かれて神殿に入ると、律法の慣習に従って、両親が幼子イエスを連れてきた。」とあります。この中で、面白いことに、シメオンがどのような人なのかということが詳しく説明され、さらに【聖霊】という言葉が3回も出てきます。

私たちは、時々「聖霊の働き」を体験することがあるのではないでしょうか。人と会話をしていて「あれ、なんでこのような言葉を言ったのだろう。これは、私の言葉ではない。」と気がつくとか、「絶対に、自分だけではできるはずがないのに、うまく行った」とか、時には、私たちが気づかないうちにことがうまく運んだというように、偶然のような物事の中に聖霊の働きを感じられるということがあるのではないでしょうか。

両親とイエス様とシメオンとの偶然のような出会いは、まさに、聖霊の働きがあったのです。もしかしたら、ルカ福音書では、「マリア様とヨセフ様の手によって、まだ幼いイエス様が神殿に行き主に捧げられるということは、聖霊によるものである」ということを意識的に【聖霊】という言葉を用いたのかもしれません。すべてが、おん父のご計画だったと言ってもいいのかもしれません。

シメオンは、聖霊のお告げ通りにイエス様と出会うことができました。彼の喜びは、どのようなものだったことでしょう。彼は、イエス様を抱きあげ、神をほめたたえて『シメオンの讃歌』と言われる祈りを捧げます。シメオンは、自分が救い主メシアを見ることができ、自分の使命が無事に遂行できたことを感謝します。そして、イエス様が「異邦人を照らす光であり、イスラエルの栄光である」ということを称えて祈ります。このシメオンの喜びは、私たちがイエス様と出会うときの喜びと同じではないでしょうか。私たちがイエス様のいつくしみの愛に触れる時、イエス様によって罪が癒された時、恵によって力をいただいた時など、「ああ、良かった。イエス様『ありがとう』」と口から言葉が自然と出るのではないでしょうか。

次にシメオンは、マリア様に向かってイエス様がどのようなお方なのかを伝えます。それと同時に、マリア様ご自身も「心の剣で貫かれます。」と言われます。これは、イエス様の受難と復活を意味しているのではないでしょうか。まだ10代半ばのマリア様は、シメオンの預言を聞いてどのように思ったのでしょうか。私たちは、自分たちが授かった子が、無事に健やかに育って行くことを願うものです。多分、マリア様も同じように思ったことでしょう。しかし、マリア様は、天使のお告げを受けた時に「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」(ルカ1・38)と答えられていましたし、マリア様は、いつも「心に留められる」(ルカ2・19、2・51)お方でしたからシメオンの言葉も【心に留められた】のではでしょうか。

みことばの最後は、「幼子は成長し、たくましくなり、知恵に満たされた。神の恵みがその上にあった。」と結ばれています。イエス様は、両親の愛によって育てられるだけではなく、おん父の愛によっても育てられます。これは、私たち一人ひとりにも同じことが言えるのではないでしょうか。きょうのみことばは、私たちの【生涯】について振り返ることができる箇所でもあります。私たちは、神の祝福によって生かされ、そして、聖霊の力に導かれて生きるととともに、私たち自身を主に捧げることができたらいいですね。

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