福岡での体験報告 大西徳明神学生

召命の道も人それぞれですが、養成の道もまたそれぞれのようです。数年間オーストラリアで神学と哲学を勉強しておりましたが、無事に学位を取得することができましたので、年始に帰国致しました。数ヶ月の東京での滞在の後に、現在は福岡で使徒職と司牧の体験をしております。平日はサンパウロ福岡宣教センターにて使徒職の体験を、そして日曜日は丁度福岡市と那珂川市との境界に位置する老司教会で司牧体験を行っております。パウロ会は小教区を持ちませんので、このように小教区に派遣してそこで養成を行うというのは非常に稀な事なのですが、「本来与えられるはずのないものが与えられる事」を「恵み」と呼ぶとするならば、まさにわたくしは福岡で他でもなく恵みの時間を過ごしているのでしょう。

サンパウロ福岡センターは地下鉄赤坂駅から徒歩五分ほどの所に位置しております。一番の繁華街である天神からだいたい歩いて十五分ほどでしょうか。小売も然ることながら九州地区のキリスト教書籍販売と聖品販売の中枢(センター)として設立されましたので、毎週日曜日と主な祝祭日には九州全体にブラザーと神父様たちが外売に出かけて行きます。繁華街から少し距離がありますので、それほど忙しさに煩わされる事無く、仕事の合間を縫っては自分の召命を振り返る毎日を過ごしております。

老司教会では鹿児島教区の神学生の方と一緒に、同じパウロ会に所属されている夫津木神父様の許で司牧体験に励んでおります。大きな小教区ではありませんが、それだけにすぐに名前を覚えて頂いたり、色々な活動や体験をすることを許して頂きました。具体的には歌の練習、大人向けの要理、教会学校の手伝いや子どもたちと球技をしたりしております。一見すると神学生にとっては何の変哲も無い体験のように見えますが、従来のパウロ会の養成では体験できなかった・させてもらえなかった貴重な経験ばかりです。といいますのも、パウロ会は全世界が小教区と考えますので個別の小教区を持つことは無い修道会なのですが、小教区司牧に関わることによって「やっぱり教区司祭になりたい」「小教区司牧がしたい」と、神学生が言い出すかもしれないリスクもあります。修道会はそのリスクを冒しながらわたくしに司牧体験をさせているわけですから、やはり受けた恵みを無駄にしてはいけないのでしょう。

奇しくも福岡教区の小教区で司牧体験をしている折に、司教様が退任されたりと、色々な体験をすることとなりました。立場上、聖職者間の意見、信徒間の意見、そして神学生間の意見を色々と聞きますが、それぞれが特に召命を考える機会となっていることは確かなようです。皆口を揃えていう事は「(司祭・修道者の)召命が無い・人材がない」という落胆と嘆きです。さて、神様がわたくしどもに求めていることは立ち止まることでしょうか。まるで希望を知らない人のようにただ下を向いて嘆き落胆することでしょうか。そもそも、これは嘆くことなのだろうかと思うのです。

キリスト者はこの世界の物事を「それ自体」ではなく「しるし」として眺め、その背後にある神様のメッセージを読み取ろうと努めますが、聖職者・修道者への召命が無いということは、華々しい「信徒の時代」を告げる「時のしるし」に他ならないのではないかと思います。短絡的かもしれませんが、司祭がいなければ信徒のうちから終身助祭が増えればいいですし、人材、例えば黙想指導をする司祭がいないならば黙想指導ができる修道者や信徒が増えれば良いのではないかと思います。

こう考えるのは、わたくしがオーストラリアにいたからでしょう。わたくしが在籍しておりました神学校(神学部)は学生の半数以上が社会に生きる信徒の方でした。その殆どが終身助祭を目指されている方々でした。わたくしの参加した聖心会(Missionaries ofthe Sacred Heart) の黙想会では、教育と訓練を受けた一般の女性が黙想指導を担当しておりましたし、ミッションスクールで教鞭を執るのはわたくしの知る限り司祭・修道者は0でした。その代りに、修士号等をお持ちの、より高い教育の訓練を受けた一般信徒が担当しておりました。そんな感じで信徒が活発になりますと、不思議なもので司祭召命が増えるもので、シドニーの神学校は定員いっぱいになりましたので建増ししなければならないと言っていたほどでした。

わたくしも含めて、例外なくすべての司祭・修道者もかつては小教区に属し、小教区の信徒の交わりの中で秘跡によって養われつつ召命を育んで参りました。活発な信徒の霊性と活動は、やはり活発な司祭・修道者召命を生み出すのではないかと思います。わたくしは思うのですね、司祭、修道者、信徒という区分以前に、全ての人は「自分自身」であることに召されており、信仰とは「自分自身」としてこの世界を生き抜くことであると。ですから、そんなにたいそうな事もする必要もなく、かといって謙遜の名目で卑下する必要も無く、ロザリオのそれぞれの玄義に登場する、あるいはその日の福音朗読で読み上げられるイエス様の目にうつる自分の姿で一日を一生懸命生きればいいと思います。それでは、どうぞ良い一日をお過ごしください。

『希望の丘 75号』より

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