光であるイエスの声に気づくという種 年間第3主日(マタイ4・12〜23)

私たちにとって【光】とは、どのようなものなのでしょうか。暗闇の中で「光」がないと周りを見ることができません。また、【光】からは、「明るさ」「暖かさ」「希望」「安心」「目標」というようなイメージが湧いてくるのではないでしょうか。きょうのミサの「集会祈願」の中で司祭は「わたしたちの集いがあなたの光を受けて輝き、世界のやみを照らすものとなりますように。」と唱えます。この中では、三位一体の神からの【光】を頂き、さらに私たちが受けたその恵みを用いて、【世のやみ】に対して新たな【光】となることを祈っているようにもとることができるのではないでしょうか。

きょうのみことばは、いよいよイエス様が宣教活動を始める場面です。みことばは、「さて、ヨハネが捕らえられたと聞いて、イエスはガリラヤに退かれた。しかし、ナザレを去り、ゼブルンとナフタリ地方にある湖畔の町、カファルナウムに行ってお住みになった。」という節から始まっています。この箇所をマタイ福音書以外のマルコ福音書やルカ福音書と比べると、同じような記事となっていますが、微妙な違いがあります。マルコ福音書は、「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて仰せになった、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めの福音を信じなさい」(マルコ1・14)とありますし、ルカ福音書は、「イエスは、霊の力に満ちてガリラヤにお帰りになった」(ルカ4・14)となっています。ただ、共通していることは、【ガリラヤ】で宣教活動を始められたことです。

当時の【ガリラヤ】は、交通の便がよく、他の国との交流もあって栄えていたようです。しかし、エルサレムから遠いこともあり、また、異邦人の血が混じっていた人も多くいて、エルサレムの人たちからは、汚れた地方として見られていたようです。マタイ福音書では、ただ「ガリラヤで宣教された」ということだけではなく、「ナザレを去り、ゼブルンとナフタリ地方にある湖畔の町、カファルナウムに行ってお住みになった。」という節を記しています。この一節は、次のイザヤ書の引用箇所が成就するためでした。なぜ、マタイ福音書は、わざわざイザヤ書を引用し、さらに、「成就した」という言葉を入れたのでしょうか。

イザヤ書では、ガリラヤは「ヨルダンの彼方」であり「異邦人の地」であり、エルサレムから見て罪人が住む地、蔑まれた「闇」の地だったのです。しかし、イザヤ書では、そのような場所に【光】である救い主が現れると預言しています。マタイ福音書は、「ナザレを去り、ゼブルンとナフタリ地方にある湖畔の町、カファルナウムに行ってお住みになった。」という一節を入れることによって、「イエス様こそが『メシア』ですよ」と伝えたかったのではないでしょか。

当時のガリラヤの人々は、マタイ福音書のこの一節を聞いてどのように思ったことでしょう。特に、「闇に住む民は大いなる光を見た。死の影に覆われた地に住む人々に光が昇った」という箇所は、人々に勇気と希望を与えたのではないでしょうか。きっと、「ああ、今までエルサレムの人々からは、蔑まれ、忌み嫌われていた自分たちのこの地に、救い主が来られたのだ。さらに、お住まいになられ、宣教してくださったのだ」と思ったのではないでしょうか。イエス様は、彼らにとって【光】として来られたのです。

私たちの周りを振り返ったとき、物質的にも経済的にお豊かですし、とても【闇】があるようには思えません。しかし、世界の情勢、政治の中、いじめや貧困など様々な【闇】の部分があることも事実です。もしかしたら、今の時代にもみことばでいう【ガリラヤ】があるのはないでしょうか。イエス様は、そのような私たちの中の【闇】の中に【光】として来られたのです。私たちの中には、イエス様が【光】としてお住みになっておられます。私たちは、その光であるイエス様が【光】として働かれるようにお手伝いしたいものですね。

さて、イエス様は、ガリラヤ湖のほとりを歩きながらご自分と一緒に福音宣教をしてくれる人を探していました。まず、イエス様が目を止められたのは、湖で網を打っていたペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレでした。イエス様は、彼らに「わたしについて来なさい。あなた方を人を漁る漁師にしよう」といわれます。イエス様は、2人に分かりやすい言葉で声をかけられます。彼らは、漁師ですから「漁る」という言葉がどのような意味を持っているのかと「ピント」きたのではないでしょうか。私たちには、どのような言葉をかけられるでしょう。次に、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネにも同じように声をかけられます。彼らもイエス様の声を聞いて【ただちに】ついて行きます。

彼らは、生活を支える「漁」に必要な「網」「舟」さらに、父さえもそこに残してイエス様に従って行きます。彼らにとってイエス様は、どのように映ったのでしょうか。彼らは、生活に必要なものをすべて捨て、【ただちに】従って行く魅力をイエス様に感じたのです。イエス様は、今も「わたしについて来なさい」と言っておられます。私たちは、イエス様の魅力を感じ、イエス様の声に気づいていくことができたらいいですね。

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