生きている限り チャン・ゴー・グエン・ヴー神学生

梅雨が長く続いている。毎日雨が降り、憂鬱に思えてくる。またこの時期は試験と重なり、こちらの神学生たちも疲労が溜まっているようだ。ようやく試験が終わって、それぞれ帰郷する時が来た。私はもちろん若葉修道院に戻る。梅雨と低気圧の二つに関東地方周辺が覆われて、いまだに寒さを感じる。そんな寒さの中、帰りの電車の窓から見える雨模様の景色を眺めるとまた寂しくなる。でも、夏休みには何が待っているかを考えると元気が戻ってくる。今は世界的にそうなのかもしれないが、電車の中で皆がじっとスマホなどの画面に夢中になっている。現代的な生活になるにつけ、相手がすぐ隣にいるのに一言の会話もなく、自分の世界だけに没頭する傾向があるみたい。昔だと新聞を読むのは当然な事であったが、今は万能なスマホだ。すぐに最新のニュースが手に入る便利な時代となった。

人間は何のために生きているのか。皆さんにとって生きている意味、また生涯の目的とは何であるか? 昨年もまた恒例の神学院・ザビエル祭が開催された。この感謝のミサでの出来事がいまだに忘れられない。それは、車椅子に座って聖堂の前列でミサにあずかっていた障害を持つ女の子に出会ったことである。口も耳も不自由なようで、手話でコミュニケーションをとっていた。神学生が手話通訳を担当したが、私もその一員として役目を果たし、奉納の歌なども手話で表現した。ミサ直前、手話部の先生が「うつむいてやらないように。必ず相手の目を見ながらやるように」と言われて、困ってしまった。緊張気味の私はますます心配し、この役目を上手く出来るかなと思った。しかし、それ以上に心に残る出来事があった。その女の子が私の手話を見ながら、声ではなく、自分の手で信仰を表し、神さまをほめたたえる仕草を見たからだ。私は心からの感動を覚えた。彼女と手話で通じ合った時に、彼女の心に何が浮かんでいたのだろうか。

また今年、哲学一年生となった、神学院の畑部を担当するトラピスト修道会のK神学生がいる。私は畑部ではないが、彼が庭を耕している時に三回ほど会話をしたことがある。疲れているのに、私のことを気遣って、笑ってくれたので心が安らかに感じた。もう四〇代の方なので、こちらのメンバーと一緒に生活し、「私も少し若くなったきがする」と笑いながら「思うのは自由ですよね。」とも言っていた。

ところで、パウロ家族は今年、特別に召命年を過ごしている。「神の賜物を再び燃え立たせなさい」という標語と同時に、「福音のゆえに自己を余すところなく捧げることは、人生全体に意味を与えることのできる素晴らしい何かである」(教皇フランシスコ)ことを味わうための一年である。人生を素晴らしく過ごす人も多いが、その逆に運に恵まれず、一生懸命努力する人も少なくない。しかし、神様が与えてくださったこの命が障害を持っていても、あるいは名もない人間であっても、また能力がなくても、生きている限り、自分なりに精いっぱい全身を社会のため、家族のため、共同体のため、そして自分のために生きていることだけで素晴らしいことだと思っている。人生の価値は、何を得るかではなく、何を残すかにある。この一年を共に歩みパウロ家族と祈り、自己奉献を捧げてまいりましょう。

『希望の丘 75号』より

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