新しい人になるという種 待降節第2主日(マタイ3・1〜12)

待降節に入り、祭壇にはアドベントキャンドが置かれ、祭服の色が紫に変わり、馬小屋が作られ、そして、共同回心式が行われます。この「共同回心式」は、【回心】ですから罪を悔やんで罪を赦して頂くために行います。そのためには、私の心の中をゆっくり振り返る時間が必要になってきます。ここで大切なことは、「私が自分の罪を振り返る」というのではなく「三位一体の恵みに照らされて」私の心を振り返るということではないでしょうか。このことを意識すると自分の罪を責めることから、恵みを頂く喜びに変わってくることでしょう。

きょうのみことばは、洗礼者ヨハネが登場し人々に「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝える場面です。洗礼者ヨハネは、人々が大勢いて華やかな町エルサレムやガリラヤではなく、生活環境が苦しい【荒れ野】で宣教活動をしていました。そこは、自分の力に頼ることが出来ず、おん父の恵みに頼る他ない場所でしたし、おん父を身近に感じることができた場所だったのです。洗礼者ヨハネは、贅沢な生活よりも「らくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を絞め、蝗(いなご)と野蜜を食物」とするようの質素な生活をしていました。

人々は、彼の生活や活動を見て自分たちとの違いを感じ、彼の魅力に引かれたことでしょう。洗礼者ヨハネの「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉は、人々の心の中に強く響き、天の国に入るため、救われるためにどのように【悔い改め】なければならないのかを考えさせられたのではないでしょうか。人々は、エルサレムやユダヤ全土、またヨルダン周辺から洗礼者ヨハネがいる【荒れ野】まで巡礼をするように集まってきました。今のように交通機関が発達していませんので、徒歩やロバなどを用いて集まって来ていました。きっと、この間に自分たちがどのように【悔い改め】たらいいのかを考えながら歩いたのではないでしょうか。この時間は、私たちが言う【糾明】と言ってもいいのかもしれません。

そこへファリサイ派とサドカイ派の人々もやって来ました。みことばには書かれてありませんが、彼らは徒歩やロバを使ってではなく、ラクダなどを使って来たのかもしれませんし、自分たちは、「アブラハムの子孫で選ばれた者なので、天の国に入ることができて当然だ」と思っていたのかもしれません。もしかしたら、彼らの心の中は、「悔い改めよ」という言葉より「天の国は近づいた」という言葉の方が強く意識したのではないでしょうか。洗礼者ヨハネは、彼らの心を見抜き、「蝮(まむし)の子孫よ、来るべき怒りから逃れるように、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」と皮肉と激しい怒りを込めて言い放ちます。洗礼者ヨハネは、彼らが「罪の意識などなく、自分たちは救われて当然だ」という傲慢な態度を続けていることに対して強く指摘したのです。

さらに「斧はすでに木の根元に置かれている。だから善い実を結ばない木はすべて切り倒され、火に投げ入れられる。」と言います。この言葉は、もう裁きの準備はできていて、いつでも切り倒されるという、緊迫した状態を指摘しているのです。私たちは、ここまで自分の心の中を振り返り、意識しているでしょうか。洗礼者ヨハネは、「だから善い実を結ぶ」ことを強調しています。これは、自分にとって【善い実】ではなく、おん父にとって【善い実】を結ぶこと、「人を愛し、施しをする」ことなのではないでしょうか。ファリサイ派やサドカイ派の人たちは、自分が救われるために、自分のために【善い実】を結ぶことしか考えていなかったのでしょう。

続けて、洗礼者ヨハネは、自分は水で悔い改めの洗礼を授けるが後から来られる方は、「聖霊と火で、あなた方に洗礼をお授けになる」と言います。いま、私たちは、「聖霊と火」によって【洗礼】の恵みをいただきました。しかし、それに甘んじていると、「蝮の子孫よ」と洗礼者ヨハネから叱責されるかもしれません。洗礼者ヨハネは、イエス様のことを「その方は手に箕(み)を持ち、麦打ち場の麦をふるい分け、麦を倉に納め、籾殻を消えることのない火で焼き尽くされる」と言います。このことは、とても厳しい言葉です。洗礼者ヨハネは、まず「悔い改める」ことを強調し、回心した人に【洗礼】を授けていました。

イエス様も同じように「悔い改めよ。天の国は近づいた。」(マタイ4・17)と宣べ伝えています。イエス様の洗礼は、「聖霊と火」を用い麦打ち場で「麦(実)と籾殻」を分けるようなことでした。これは、私たちに【回心】ということを伝えているのではないでしょうか。パウロは、「古い人を脱ぎ捨て、精神も霊も新しくされて、神にかたちどって造られた、まことの義と崇高さを備えた新しい人を見にまとうということです。」(エフェソ4・24)と言っています。洗礼の恵みは、籾殻である【古い人を脱ぎ捨て】、火で燃やし、【新しい人】となって【倉】に納めると言ってもいいでしょう。

私たちは、主の降誕を前にして、イエス様の箕(恵み)をいただきながら「籾殻(古い人)」に固執するのではなく、「麦(新しい人)」になるように【回心】することができたらいいですね。

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