見たいという種 年間第31主日(ルカ19・1〜10)

教皇フランシスコの訪日が11月23日に決まり、私たちは祈りと様々な企画などで迎える準備をしていることでしょう。38年前の教皇ヨハネ・パウロ2世の訪日の時の私は、高校1年生でした。後楽園球場の教皇ミサ、東京カテドラルでの聖職者の集いに行ったことを覚えています。皆んな教皇様を見ようとし、また、触れようとして、少しでも近く行っていたのを覚えています。きょうのみことばのザアカイと同じような感じなのかもしれません。

きょうのみことばは、『ザアカイの回心』の場面です。ザアカイは、イエス様がエリコに来られたと聞くと是非どんな人か見たいと思って人垣の中に入っていきます。彼は、徴税人の頭であり金持ちでした。しかし、彼は背が低く大勢の人に妨げられイエス様を見ることが出来ませんでした。聖書の中で【見る】という言葉は、ただ漠然と目に写るものを見るとか、景色を見るとか、注意深く見るというように色々分かれているようです。きっと、ザアカイは、好奇心でイエス様を見ようとしたのではなく、【見なければならない】という使命感のような心に強い何かを持っていたのではないでしょうか。

しかし、彼は背が低いためイエス様を見ることが出来ませんでした。彼の【背が低い】というのは、私たちの体や心の中のハンディーキャップと言ってもいいのかもしれません。それは、私たちがイエス様を見たいと思っていても、自分の罪深さ、恥ずかしさなどで素直に見ることが出来ない心の状態と言ってもいいでしょう。ザアカイは、自分の背が低いことを認めそれでも是が非でも見たいという一心で走って先回りをし、そこを通られるはずのイエス様を見ようとして、いちじく桑の木に登ります。彼は金持ちですからきっと立派な着物を身に纏(まと)っていたことでしょう。周りの人は、自分たちから異邦人であるローマ人に収める税金を、しかも高い手数料までつけて取り立てている徴税人の頭が恥も外聞もなく「いちじく桑の木」に登っている姿を見て、嘲笑し、軽蔑したのではないでしょうか。それでもザアカイにとっては、イエス様を【見なければ】という強い意志が「いちじく桑の木」に登るという行動に駆り立てたのではないでしょうか。私たちは、彼のように必死になってイエス様を【見よう】と思っているでしょうか。自分の中の心のハンディーキャップを認め、【いちじく桑の木】に登ることができるでしょうか。少し振り返ってみてもいいかもしれませんね。

イエス様は、そこを通りかかると、見上げて「ザアカイ、急いで下りて来なさい。今日、わたしはあなたの家に泊まるつもりだ」と言われます。みことばは、「そこを通りかかる」とありますが、これは【そこでなければならない特別な場所】という意味のようです。私たちとイエス様との出会い(回心)は、どんな場所でも、どんな時でもいいのではなく、初めから決められていると言ってもいいでしょう。さらに、神の子であるイエス様が人であるザアカイを「見上げられ」「『ザアカイ』」という名前を呼ばれ、「急いで下りて来なさい。今日、わたしはあなたの家に泊まるつもりだ」と声までかけられるのです。この【ザアカイ】という名前を【私の名前】に置き換えてみると、イエス様が、私たち一人ひとりといかにいつくしみの愛を持って接してくださっているかがわかるのではないでしょうか。

ザアカイは、イエス様から声をかけられ、急いで下りて来て、喜んでイエス様をお迎えします。イエス様の「わたしはあなたの家に泊まるつもりだ」という言葉の中には、「わたしは(初めから)あなたの家に泊まるという計画だったのだよ」という意味が込められているようです。ザアカイは、イエス様のこのお気持ちを感じ、愛に触れ、喜んでイエス様を(家に)お迎えします。私たちもイエス様を喜んでお迎えできたらいいですね。

人々は、イエス様とザアカイの一部始終を見て「あの人は、罪人の所に行って宿をとった」とつぶやきます。彼らにとって「徴税人」はどんな人であっても【罪人】なのです。さらに、罪人と接することで、その人も汚れると考えていました。ですから、彼らにとって自分たちが尊敬するイエス様が、「罪人に声をかけられるだけではなく、宿をとるなんて何を考えているのだろうか」と思ったことでしょう。ザアカイは、人々から「痛い視線」や「言葉」にもめげず、自信を持って「立ち上がり」イエス様に告白をします。彼は、イエス様の愛に触れることで今までのような「背が低い」という心の劣等感から解放され、自分のありのままの姿に変えられたのです。イエス様は、「今日、この家に救いが訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子が来たのは、失われたものを捜して救うためである」と言われます。この言葉は、『見失った羊』(ルカ15・4〜7)を思い出しますし、この「今日」は、私たちにとっても【今日】と言ってもいいでしょう。

イエス様は、私たち一人ひとり所に【特別なその時と場所】に来られ、私たちの心を解放され、愛を持って声をかけてくださいます。私たちは、そのイエス様の愛に信頼して今一度【見たいと】という心を持つことが出来たらいいですね。

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