ファリサイ派と徴税人 年間第30主日(ルカ18・9~14)

ファリサイ派と徴税人では、どんな立場だったのでしょうか。ファリサイ派は自分のことについて、心の中で「この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」(ルカ18・12)と祈っています。それに対して徴税人は、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18・13)と祈り、対照的な動作です。そもそもファリサイ派は人々からとても尊敬され、評価されていた人々でした。それに対して徴税人は、税金を取り立てる時、余計に取り立て、それによって私腹を肥やしていました。そのために、彼らは社会的にも軽蔑されていた人たちです。

ファリサイ派の人が祈る時、「心の中で」というのが、興味深いものです。この表現の中に、口には出さなくても、自分が他の人たちよりも優れているような雰囲気が漂っています。「自分はたいしたことはありませんよ」と言葉では言いながら、心の中では「あの人とは違いますよ」と思うように…。日本でも使ったりする「建て前と本音」という表現で言い表せるのではないでしょうか。またファリサイ派の人は徴税人に対して、「この徴税人」という言い方がとても引っかかります。「この」はギリシア語で「フートス」が使われ、「これ」といった意味合いもありますが、「こいつ」というような軽蔑的なものもあります。典型的な表現が「放蕩息子」のたとえで、兄がお父さんに対して、弟のことを指して語る場面、「あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒に…」(ルカ15・30)という箇所で、「あの」(フートス)という表現がまさにその描写と重なっています。とても軽蔑的な雰囲気が、ファリサイ派の中にも同様に見えてきます。

ファリサイ派のように、誇らしげな祈りなのか、あるいは、徴税人のように自分の罪深さを深く反省していく祈りなのか、私たちの謙虚さを問いかけてくれます。

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