無関心な金持ち 年間第26主日(ルカ16・19~31)

金持ちとラザロの話が登場しますが、この金持ちはファリサイ派に属すると考えることができるでしょう。それは今日の箇所のすぐ前の所で次のように記されています。

「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」(ルカ16・14)とありますので、このファリサイ派の人が話の延長線上にあると想像できます。この金持ちはラザロや他の人たちに危害を加えているわけではありません。この箇所を読んでいく限り、何が一体問題なのでしょうか。

金持ちの門前にできものだらけのラザロがいて、金持ちの食卓から落ちるもので腹を満たしたいと考え、さらにラザロはできものを犬になめられています。とても屈辱的な状況にありながらも、この金持ちはラザロに無関心で、介抱しようともしません。つまり、ラザロに対して、まったく「無関心」であることが大きな問題ではないでしょうか。

金持ちはラザロを殴ったり、侮辱的な言葉をかけるわけではありません。紫の柔らかい麻布を着て、ぜいたくに暮らしていました。自分のことだけに執着していて、ラザロのことに気がついていないし、まったくの無関心です。人に対して無関心であることはとても寂しいことではないでしょうか。

今道友信教授の『愛について』という一冊の本があります。その中の一節に「愛の反対は無関心である」と記されています。口論したり、憎むことはお互いに傷つくこともありますが、そんな状況でも相手の存在を認めています。相手がいないと口論も憎しみも存在しません。これがまったくの「無関心」であれば、こうした状況も存在しないことになります。

金持ちが陰府へ送られた理由は、他人に対する「無関心」。現代、コミュニケーションの手段はとても発達しましたが、人と人とのコミュニケーションは希薄になっていないでしょうか。また家庭や修道院の共同生活の中でこうした無関心が芽生えていないでしょうか。「金持ちとラザロ」の話から、私たちの無関心の度合いをチェックしてみたいものです。

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