弱さを赦される愛という種 年間第24主日(ルカ15・1〜32)

私たちは、誰一人完全な人はいません。確かに何かを行うとき完璧を目標にしますがそれは難しいことです。イエス様は、そんな私たちに「それで、いいんだよ」と言ってくださる方ではないでしょうか。きょうのみことばに入る前に、私たちは、「愚かな金持ち」「忠実な僕と不忠実な僕」「平和ではなく分裂」「イエス様の弟子の姿」など少し厳しいイエス様の教えを黙想してきました。

きょうのみことばは、ルカ福音書の中にある、おん父の【いつくしみの愛】の三部作と言ってもいい『見失った羊』『なくした銀貨』『放蕩息子』の箇所です。

徴税人や罪人が話を聞こうとしてイエス様の所に近寄ってきます。イエス様と弟子たちは、エルサレムへの旅の途中にどこかに宿を取ったのでしょう。イエス様のことを聞いた徴税人や罪人は、周りのユダヤ人たちから「あなた方は、『罪人だから救われないよ』」と言われている人たちでした。それでも彼らは、自分たちを救って欲しいと望んでイエス様のところに来たのでしょう。イエス様は、「さあ、一緒に食卓を囲みましょう。」と彼らを快く受け入れ食事をされたのでした。しかし、それを気持ちよく思わないファリサイ派や律法学者たちは、イエス様の行為をつぶやきます。みことばの中で「つぶやく」ということは、相手の行為を指摘する、批判する時に使う言葉のようです。

イエス様は、そんな彼らのつぶやきを聞かれて三つの譬え話をされます。ファリサイ派や律法学者たちは、自分たちこそが正しい人で、しかも救われるべき者だと自負していましたし、正しいユダヤ人は「こうあるべきだ」という固定観念を持ち、自分たちの常識を周りの人にも要求していたのでしょう。そのため、彼らは、ローマ人のために税金を取り立てさらに規定以上に徴収していた徴税人、酒に溺れ放蕩に身を持ち崩しているような人、また、律法を守りたくてもできない人たちを【罪人】として、受け入れることができなかったのです。

一方、徴税人や罪人と周りのユダヤ人たちから【罪人】と言われている人たちは、好き好んで罪を犯そうと望んでいませんし、生活のために徴税人という職につき、真面目に律法を守ろうと思っても生活に追われ十分に守ることができない人たちや、弱さや性格や様々な障がいから罪に傾いていた人たちでした。彼らは、知らず知らずのうちに周りのユダヤ人たちに対して「負い目」を持っていたことでしょうし、排斥され差別を受けていたのではないでしょうか。

イエス様は、ファリサイ派や律法学者たちだけではなく、徴税人や罪人に対しても『見失った羊』『なくした銀貨』『放蕩息子』の譬えを話されます。最初にイエス様は、「あなた方のうちに、100匹の羊を持っている者がいるとする。」と話し始められます。ユダヤ人たちにとって羊は、身近な家畜であり1匹ずつ名前をつけて家族同然のようなものでした。ですから彼らは、イエス様が「100匹の羊」と話されたときに直ぐにイメージが浮かんだのではないでしょうか。イエス様は、その100匹の羊のうちの1匹を見失ってしまった、と言われます。羊飼いは、見失った1匹がどこに行ったのか、羊が行きそうな場所を探し回り、自分たちが来た道を引き返し、見つけ出すまで諦めずに探し続けます。そして見つけ出すと「一緒に喜んでください。見失ったわたしの羊を見つけましたから」と喜んで人々に伝えます。

さて、ここで羊飼いであるイエス様は、「【見失った】わたしの羊」と言われます。しかし、群れからはぐれた羊の方は、たまたま興味を引く所に行って群れを離れたかもしれませんし、どこか具合が悪くて群れと一緒に行くことができなかったかもしれません。イエス様は、そんな羊を責めることも、諦めることもせず辛抱強く最後まで探され、また、ご自分が見失ったわけでも、ご自分の責任でもないのにも関わらず「【見失った】わたしの羊」と言ってくださるのです。

次に、ドラクメ銀貨を10枚のうち1枚をなくした女の譬えを話されます。1ドラクメ銀貨は、当時の1日分の賃金だそうです。ここでもイエス様は、何百万円という高額なお金ではなく彼らがイメージできる貨幣を用いられます。それでも女性が稼ぐ額としては、大切な銀貨だったことでしょう。そして、彼女は、銀貨を見つけたときわざわざ近所の人を呼び集めて「一緒に喜んでください。なくしたドラクメ銀貨を見つけましたから」と言います。

最後に『放蕩息子』の譬えを話されます。この息子は自分が貰うべき財産を持って好き勝手に放蕩に身を持ち崩します。それにも関わらずおん父は、「いなくなっていたのに見つかったのだから、祝宴を開いて、喜び合うのはあたりまえではないか」と帰ってきた息子を受け入れるのです。

私たちは、時にはファリサイ派や律法学者のように正しくない人、自分の考えにそぐわない人を責める傾き、また一方、弱さのゆえに罪を犯してしまう傾きを持っています。おん父の【いつくしみの愛】は、そのような弱い私たちを赦してくださるのです。私たちは、もっと心を開きながら、このおん父の【いつくしみの愛】に、信頼して歩むことができたらいいですね。

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