80. 走るべき道を走り尽くす――マスコミの先駆者アルベリオーネ神父

一九七一年(昭和四六年)十一月二十五日からアルベリオーネ神父の容態は悪化し、その日の午後三時ごろ総長ザノーニ神父の手から塗油の秘跡をさずかった。それからザノーニ神父は創立者の書斎のわきの祭壇で創立者の回復のためにミサをささげた。まもなく急を知ったパウロ家の人たちが続々と見舞いに来た。創立者の最後の言葉は「私はもうじき死にます。天国へ行って、みんなのためにお祈り致します」であった。それから「アヴェ・マリア、アヴェ・マリア……」と口ごもった。夜一一時にザノーニ総長から最後のご聖体を受け、意識しながら主の祈りと天使祝詞と射祷をみんなの声に合わせて祈った。そして十字架とロザリオに接ぷんし、イエス・マリア・ヨゼフの名をとなえた。

翌二十六日の夕方、教皇パウロ六世が臨終の創立者を見舞いにこられた。その時、アルベリオーネ神父は無意識の状態であった。看護のシルバノ修道士が高い声で創立者に言った。「プリモ・マエストロ、教皇様がお出でになって、あなたを祝福なさいます」と、教皇はベッドの前にくると、「おお、アルベリオーネ神父」と挨拶された。それから教皇は、無意識の神父に「もう一度、あなたに罪の赦しを与えます」と言ってら創立者の手を握り、ひざまずいて、イエス・マリア・ヨゼフの射祷をとなえ、罪のゆるしを与え、祝福した。

だんだんアルベリオーネ神父は呼吸が苦しくなり、パウロ家の代表者のとなえるイエス・マリア・ヨゼフの射祷に、苦しい息づかいで答え、教皇が去ってから三○分後に最後の息を引き取った。アルベリオーネ神父は遺言通り、遺体のそばには福音とロザリオと会憲がそなえられた。逝去の日時は、一九七一年(昭和四六年)十一月二十六日、午後六時三五分であった。

アルベリオーネ神父が亡くなった時に、神父が遺産として残したものは五つの修道会と四つの在俗修道会である。会員は合計九千人であった。男子パウロ会の支部について、戦前のものは前に述べたが、ちなみに第二次大戦中および戦後に創立された支部のある国名と創設の年とをしるしてみよう。一九四三年(昭和一八年)にポルトガル、一九四六年(昭和二一年)にはアイルランド、メキシコ、チリ、スイス、翌年にはイギリスのコロンビア、一九五一年(昭和二六年)にはヴェネズエラ、翌年にはオーストラリア、一九五三年(昭和二八年)にはキューバ、翌年ドイツ、一九五七年(昭和三二年)コンゴ、(現在のザイール)、一九六一年(昭和三六年)には韓国に支部が創設された。

その男子パウロ会のあとを追うかのように、女子パウロ会も師イエズス修道女会も、次々と支部を創設し、アルベリオーネ神父の言う一つ大木から全世界へ向けて次々と枝を伸ばしてパウロ家という大家族を造り上げ、神の栄光と人びとの救いのために活躍しているのである。

それから男子修道者は一五○○人、修道女は六千人、五大大陸三五国にまたがるこのパウロ家の修道院と聖堂は五一○、教会が一二、世界中に普及した本は一億五千冊,聖書だけでも五千万部に達した。月刊誌のファミリア・クリスチアーナ(キリスト教的家庭)は五○か国で発行されている。そのほか聖パウロ修道会だけでも二百の書店、一二種の長編映画フィルム、六四のドキュメンタリー映画、四百種のレコード、六つの放送局がある。それに典礼使徒職センター四三、幼稚園が七三ある。これらは、いずれもアルベリオーネ神父の発案で、パウロ家の人たちが実現したのであるが、創立者の偉大な遺産とさなされうる。しかし、これらの遺産は、創立者自身のただの人間的経験とか経営管理の手腕とかによるものだけでなく、おもに神からの霊感によるものであると、創立者は述べている。

このことは、創立者の遺産の中で最も価値ある霊性を考えれば明白である。次ぎにパウロ家に伝えられた創立者の不滅の霊性のいく分かを紹介してみよう。

・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年

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現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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