狭い門 年間第21主日(ルカ13・22~30)

救いに至るために、狭い門から入るようにイエスは語ります。マタイでは「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は広く、その道は広々としていて、そこから入る人は多い。しかし、命に至る門は何と狭く、その道は細いことか」(マタ7・13~14)と語るように、二つの門(滅びに至る門と命に至る門)があります。それに対して、ルカでは一つの門だけで、イエスのエルサレムへの受難の旅と関連しています。エルサレムへの道は、苦難と死を通しての復活と昇天の栄光に至る道ですが(ルカ9・51)、イエスの苦難は想像を絶するものでした。「十字架」は、「ユダヤ人には人をつまずかせること、異邦人には愚かなことですが、ユダヤ人であれギリシア人であれ、召された者にとっては、神の力、神の知恵」(一コリ1・23~24)となっていきます。

また狭い門が閉められた後、「ご主人さま、開けてください」(ルカ13・25)と願ったとしても、イエスは「お前たちが何者かを知らない」と語ります。この表現は、マタ25・10~12での愚かなおとめたちのたとえが想起され、ユダヤ教社会においては、破門宣言の際に用いられていた用語でした。イエスを受け入れない者には、救いの機会はあっても神の国に入れないということでしょう。この戸は一度閉まれば、もう開くことはありません。

その後、「わたしたちはあなたとご一緒に食べたり飲んだりしました」(ルカ13・26)と語ります。かつて一緒に食べ、仲良くしていたことを引き合いに出しますが、私たちにはイエスの言葉を聞くだけでは不十分です。また神の国に入るというのは仲良しグループではありません。さらに救いはイスラエルの民だけではなく、異邦人にも向けられています。「後の者で先になる者もあり、先の者で後になる者もある」(ルカ13・30)という言葉がそのことを示唆しています。先の者とはユダヤ人、後の者とは異邦人。洗礼を受けたので、天国への切符が確定したと思わず、いつでも謙虚な気持ちで、歩んでいきたいものです。

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