自分に負い目のある人を皆赦す 年間第17主日(ルカ11・1~13)

「主の祈り」の有名な箇所ですが、今日読まれた箇所はルカ福音書から取られています。この箇所でとても心に残るのは「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」(11・4)です。同じ内容がマタイ福音書ではどのように表現されているでしょうか。「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」(6・12)となっています。この二つを比べてみて大きな違いがあるのは、「皆」という言葉です。ルカ福音書ではこのことばをあえて入れています。「皆」とすることで、どんな人に対しても赦す心が見えてきます。赦す対象に大きな広がりが感じられます。

赦すというと、罪のないキリストが十字架を担い、最後は十字架につけられていきます。十字架刑はその当時もっとも重い処刑方法でした。十字架上にあってイエスが語ることばはとても印象的です。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23・34)。

また二人の犯罪人とともに十字架につけられたイエスは十字架を耐え忍び、人々を赦していきます。議員たちはあざ笑って言います。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(ルカ23・35)、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(ルカ23・37)、また一人の盗賊は「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(ルカ23・39)。嘲笑や自分に都合の悪い裁きではあっても、イエスはそれを受け入れます。

イエスご自身がこうした忍耐をまず示されたので、「自分に負い目のある人を皆赦す」意味がもっと身近なものになるのではないでしょうか。

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