祈りについて 大川豊修道士

修道生活は祈りの生活とも言われます。確かにこの生活は、ミサや祈りの時間も決まっていて、朝から眠る時まで、祈りのうちに生活できるような環境があります。祈りの生活を通し、神さまの前に自分をさらけ出し、神さまの愛と力に包まれた生活は、まさに理想の信仰生活と言えます。

しかし、実際はそれほどバラ色の生活という訳でもありません。現実は当然、悩みや苦しみや不安など、様々な問題を抱え、その問題を解決できず悩んだり落ち込んだり。祈ったからと言って、すぐさま厳しい現実がやさしく変わるわけがありません。それが修道生活を送っている者と言えども、実際の人間の姿だと言えます。

そんな理想とのギャップに悩む、厳しい現実の中で「気を落とさず絶えず祈らなければならない」というイエスの言葉が心に響きます。イエスのこの言葉は、願いがかなえられないと、諦めて祈ることをやめてしまう弱い自分に、それでも祈りに踏みとどまるように、エールを送るかのように感じられるのです。

もう一つ、不正な裁判官のたとえ話があります。神を恐れず、人を人とも思わない、心の冷たい傲慢な裁判官は、やもめの執拗な訴えに根負けし、「煩わしくてかなわないから、聞いてやろう」と、やもめの訴えをかなえてやります。

もちろん、神さまは傲慢な裁判官とは違って本質的にもっと憐れみ深い方なのだから、このやもめのように叫び続けていれば、その願いを聞いてくれないことはないはずです。

祈りを支えるもの。それは「神さまは人問の叫びを必ず聞いてくださる」という信仰なのかもしれません。そうした神さまへの強い信仰があれば、祈りはもっと真剣に、もっと力強く、もっと豊かになっていくように思えます。

今、自分は本当に心から祈っているのか? 本当に神さまに信頼して生活しているのか? イエスの「気を落とさず絶えず祈らなければならない」という言葉に励まされながら、これからも神さまに信頼して、いろんな場面で、いろんなことを神さまに叫び続けていきたいと思います。

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