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第三の隠喩:キリストのからだとその肢体――ソーシャル・ネットワーク・コミュニティーから人間共同体へ(4/5)

教皇は、「キリストのからだとその肢体」の隠喩から一つの答えを導き得るのではないかと提案します。そして、エフェソ4・25の言葉を引用します。「ですから、偽りを捨て、『各々隣人に対して真実を語りなさい』。わたしたちは、互いに一つの体の部分だからです」(フランシスコ会聖書研究所訳)。

この「キリストのからだと肢体」という表現は、エフェソ書では、教会の神秘を表すものとして用いられています。第一に、教会が頭であるキリストにつながっている体であり、キリストの充満であるということを示します。「すべてのものをその足元に従わせ、すべての上に立つ頭として、キリストを教会にお与えになりました。教会はキリストの体です。このキリストこそ、教会のすべてのものが、すべてにおいて満たされていくもので満ちておられる方です」(1・22-23、フランシスコ会聖書研究所訳)。

次に、キリストから受けた賜物の種類に応じて多様な恵み、務めがあり、それらが有機的に結びつけられ、一つのキリストのからだを造り上げ、成長していくのが教会であり、だからこそ教会は堅固で、揺るぎない共同体だということです。少し引用が長くなりますが、この教皇メッセージを読み解くうえでも重要と思われるので、ここに記しておきます。

「わたしたち一人ひとりに、キリストから受けた賜物の種類に応じた恵みが与えられました。……そして、この方ご自身がある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を教師、また牧者として与えてくださいました。それは、聖なる人々を奉仕の働きができるように準備させ、キリストの体を築き上げるためです。わたしたちはみな、信仰によって、また、神の子を深く知ることによって、一つになり、成熟した大人、すなわち、キリストのうちに満ちているもので満たされて、その背丈にまで達するようになるのです。こうして、わたしたちは、もはや子供ではないので、人間のまやかし、すなわち、人を惑わせる悪賢い抜け目なさが生み出す教えの風に吹き回され、翻弄されることなく、むしろ、愛に基づいて真理を語り、あらゆる面で頭であるキリストに向かって大きく成長していきます。このキリストによって、体全体は、必要なものをもたらす互いのあらゆる触れ合いを通して、また、各部分の役割に従った働きに応じて一つに組み合わされ、結び合わされて大きく成長し、愛に基づいて自分を築き上げていくのです」(4・7、11-16、フランシスコ会聖書研究所訳)。

エフェソ書は、そのうえで、この神秘をキリスト者同士の生活に当てはめていきます。「ですから、偽りを捨て、『各々隣人に対して真実を語りなさい』。わたしたちは、互いに一つの体の部分だからです」(4・25、フランシスコ会聖書研究所訳)。わたしたちが「互いに一つの体の部分である」ということこそ、エフェソ書にとって、わたしたちが互いに嘘偽りを捨て、真理を述べることの根本的理由なのです。真理とは、かかわりの中で明らかになるものであり、相手を信頼できるということだからです(「真理」については、昨年の「世界広報の日」教皇メッセージを参照)。その一方で、嘘偽りはエゴイスティックな考えを優先させ、自分が「からだ」の一部であることを否定することにほかなりません。他者のためにみずからを与えることの拒絶であり、こうして自分を見いだす唯一の道を閉じてしまいます。同時に、相手には疑いを生じさせるため、真理に基づく信頼関係は瓦解してしまいます。

この「キリストのからだとその肢体」という隠喩は、わたしたちキリスト者の、そして人間全体のアイデンティティーを示しています。それは、交わりと他者性の上に成り立つアイデンティティーです。「交わり」だけではなく、「他者性」、すなわち、それぞれが異なる存在である、他者であるということです。わたしたちは、異なっていてもみな、唯一のキリストのからだの肢体です。そこでは、違いは、もはや邪魔なもの、障害ではなく、他者を自分と競合する者とみなす必要もなく、むしろ敵をも「ペルソナ」とみなすことができるようになります。自己理解のために、もはや敵対者をつくる必要はないのです。わたしたちはキリストの姿勢、つまり排他的に拒絶する姿勢ではなく、逆にすべてを内側へと取り込んでいく姿勢に学び、「他者性」がかかわりを築き、隣人となるための「不可欠の条件」であることを発見するのです。

この意味での互いの理解とコミュニケーションの土台は、三位の神のペルソナ間の愛の交わりにあります。教皇は述べます。「神は、『孤独』ではありません。『交わり』です。『愛』です。ですから、コミュニケーションです。愛は、他者に出会うために、常にコミュニケーションをおこなう、いやむしろ自分を伝えるからです」(私訳)。

わたしたちは、この交わりであり、自己コミュニケーションそのものである神のかたどり、似姿として創造された者であり、だから、わたしたちは常に心の奥底に交わりのうちに生きることへのノスタルジー、共同体に属していることへのノスタルジーを秘めているのです。教皇は、これを「ノスタルジー」と表現します。「ノスタルジー」は思い起こさなければ、日常の思いに隠れて、忘れ去られてしまいます。だから、教皇はこのメッセージでも「再発見する」よう招くのでしょう。

教皇は、「信仰それ自体がかかわり合いであり、出会いです」と述べ、わたしたちは神の愛に駆り立てられて、他者という賜物とコミュニケーションをおこない、他者を受け入れ、理解し、そして他者にこたえていくことができることを指摘します。

三位一体の神のかたどりとしての交わりは、「ペルソナ」を「個」から分かつものでもあります。わたしがわたしであるためには、他者が必要なのです。みずから他者にかかわることによってのみ、わたしは真の意味で人間的なもの、ペルソナ的なものなのです。「ペルソナ」という言葉は、「顔」、「面」、「表情」(イタリア語:volto)としての人間を示します。この顔が、他者に「向けられ」(イタリア語:ri-volto)、他の人々とともに「巻き込まれる」(イタリア語:co-in-volto)ときこそ、「ペルソナ」なのです。「個」とは他者をライバルとみなす存在。「ペルソナ」とは他者を旅の仲間とみなす存在。真の意味で「人間的」なものとなる歩みは、この「個」から「ペルソナ」へと移っていくことなのです。

(続く)

本記事について

この記事は、2019年5月26日(日)に聖パウロ修道会若葉修道院で開催された、「第53回『世界広報の日』記念講演会『わたしたちは、互いにからだの一部なのです』(エフェソ4・25) ソーシャル・ネットワーク・コミュニティーから人間共同体へ」(講師:澤田豊成神父)を要約したものです。全5回。
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