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ソーシャル・ネットワーク・コミュニティーの問題点――ソーシャル・ネットワーク・コミュニティーから人間共同体へ(3/5)

「共同体」の本来あるべき姿を踏まえると、現状では「ソーシャル・ネットワーク・コミュニティー」が自動的に「共同体」と同義でないことは誰の目にも明らかだ、と教皇は指摘します。一体性と連帯が備わっていることを示すコミュニティーも見られるとはいえ、多くの場合、これらのコミュニティーは特定の興味とか表面的な話題にひかれて集まっただけのグループにすぎません。教皇は、「ソーシャル・ウェブ」上のアイデンティティーが、グループに属さない人との対比、対立という視点で、しばしば成り立っていることをも指摘します。「一致させる」という視点でなく、「分ける」という視点の上に立って、自分たちを理解するのです。こうして、疑いや偏見を助長し、過度の個人主義、憎しみの連鎖を生み出すのです。世界に開かれた窓であるべきなのに、自己に陶酔して自身をひけらかすガラス窓(=ショー・ウインドウ)になってしまうのです。

もう一度、テーマに戻りましょう。「ソーシャル・ネットワーク・コミュニティーから人間共同体へ」。日本語訳にはなかなか訳出できないのですが、原文では、「ソーシャル・ネットワーク・コミュニティー」は複数形です。その一方で、「人間〔的〕共同体」は単数形です。こうした細かい点にも、「ソーシャル・ネットワーク・コミュニティー」がばらばらに分かれていく方向へ向かい、真の「人間〔的〕共同体」が一致へと向かうという両者の特徴が示されているのです。

教皇は、ここに「ソーシャル・ウェブ」の根本的問題点を見ているようです。他者との出会いを推進し得るものなのに、わたしたちの一人になりたいという傾きを強めてしまうこともあり得るという点です。教皇は、「蜘蛛の巣」を例に挙げます。「蜘蛛の巣」も「網」ですが、それは罠であり、「網」に入り込んだ人を孤立させてしまうのです。「ソーシャル・ウェブ」上でのしばしば安易で自分本位な人間関係を、真の人間関係と取り違えてしまう若者が多いのです。こうして、社会からみずからを全面的に隔離してしまう「ひきこもり」という危険な減少すら引き起こすのです。「ひきこもり」と訳されている表現は、直訳すると「ソーシャルな隠遁生活者」です。「社会」から離れ、「ソーシャル・ウェブ」の世界で隠遁生活をおこなう「修道者」という意味でしょうか。「ソーシャル・ウェブ」のはずなのに、異なる人々が織り成す多様な「社会関係」から人を引き離し、社会性を破壊してしまうのです。なんという皮肉、矛盾でしょうか。

当然のことながら、解決策は、接続回数や、時間を増やすことにあるのではありません。「オンライン」上でも、わたしたちは互いに対して責任があるとの自覚をもったうえで、どのようにして真の共同体的アイデンティティーを再発見するかということにあるのです。

(続く)

本記事について

この記事は、2019年5月26日(日)に聖パウロ修道会若葉修道院で開催された、「第53回『世界広報の日』記念講演会『わたしたちは、互いにからだの一部なのです』(エフェソ4・25) ソーシャル・ネットワーク・コミュニティーから人間共同体へ』(講師:澤田豊成神父)の講演内容を要約したものです。全5回。
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