喜びの中で… 主の昇天(ルカ24・46~53)

今日は主の昇天をお祝いしています。文字通り、イエスが天の昇られたことを記念するものですが、この出来事を通して弟子たちはどんな思いだったのでしょうか。今まで全てにおいてイエスと行動を共にし、難しい時、分からない時にはイエスに尋ねれば回答を得ることができました。しかし、イエスが昇天することによって、直接尋ねる相手がいなくなってしまいます。弟子たちにしてみれば、一抹の不安を感じたことでしょう。

ところが、今日の箇所には不安どころか、次のように記されています。「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」とあります。イエスとの別れの寂しさよりも、彼らは喜びに満たされています。

なぜ彼らは「大喜び」したのか、不思議に思います。イエスとの仲が悪かったわけでもないのに…。ルカ福音書をよく読んでみると「喜び」についてのメッセージが数多く登場します。例えば、ザカリアの場面では「その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ」(1・14)とあります。マリアに対するイエスの誕生告知にあっては、「恵まれた者、喜びなさい。主はあなたとともにおられます」(1・28)と。また羊飼いがイエスを訪問した時、み使いが「わたしは、すべての民に及ぶ大きな喜びのおとずれをあなたがたに告げる」(マタイ2・10)と。他にも、見失った羊が見つかった時(ルカ15・7,10)にも喜びが記されています。これらのことから、ルカ福音書にとって、「喜び」は欠かすことのできない重要な言葉です。

しかも、今日の箇所は単なる「喜び」ではなく、「大喜び」とあるように、普通の喜び以上の感情が示されています。主の昇天の直前にイエスは、「あなたがたはこれらのことの証人となる」と語ります。これは神の計画によるものの実現で、宣教者はイエスの宣教の道を歩み、彼の受難と復活をともにする証人となります。まさに苦しみと喜びを共にする。ここに弟子たちが喜ぶ意味が込められているのではないでしょうか。

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