69. 宣教の根拠地をつくる ――マスコミの先駆者アルベリオーネ神父

昭和二三年、聖パウロ会の志願者の養成期間として、聖パウロ学園の高等学校の設立が決まり、二四年三月財団法人の許可を得た。校地としては赤坂の元近衛第三連隊跡の一角を予定した。そして一○年のうちに正式の学校を建てるという条件で東京都から買い求めた。そこにまもなく一階印刷実習室、二階教室の校舎が建築された。それより前に修道院は火薬庫跡を改造して建築された。

これと同じころ、九州の福岡に志願院を設立する目的で三人の会員が派遣された。当時の福岡教区長深堀司教の好意によって、大名町教会に隣接した建物が書店及び仮修道院として使用された。次いで当時、山笹の多い丘陵地であった福岡市小笹町の丘を切り開いて、木造平屋建の修道院が建てられた。

そして間もなく、本建築の工事が開始されたが、国際情勢から予定の資金が集まらず、一時工事が中断された。しかし、会員たちの努力によって一九五四年(昭和二九年)十一月に一応竣工し、志願院として中学生の志願者を養成している。ちなみに聖パウロ学園と赤坂の修道院は、一九七一年(昭和四六年)十一月に八王子市下恩方町に移転した。

一九五○年(昭和二五年)五月には「ピエ・ディシェポレ」(師イエズス修道女会)のシスター・イラリアとシスター・コルディスが来日し、しばらく四谷の若葉町に留まった後、福岡小笹町に修道院を開いた。翌年の二月十日聖スコラスチカの祝日に福岡の大名町教会で六名の志願者が着衣をした。

一九五三年(昭和二八年)四月、総会長アルベリオーネ神父は、第二回目の日本訪問を行った。開局した「文化放送」、福岡修道院、パウロ家の女子修道院などを巡視され、みんなに創立者としての、徳の高い慈父としての印象を深く刻みこんだ。

その年、師イエズス修道女会の着衣者たちがマルチェリヘノ神父の紹介で埼玉県川口市のバラックで最初の修練を始めた。その際の大黙想の指導をアルベリオーネ神父が行った。その黙想で強調されたことは、使徒の元后である聖マリアへの信心であった。

「パウロ家の人びとにキリストのお恵みをお祈りするなら、また世の人びとにキリストを伝えたいなら、その先に聖母マリアを伝えなさい。聖母マリアがカナの奇跡を準備されたように、また人びとの心の回心をも準備したくださるでしょう。日本人に聖母マリアを与えなさい。日本人は日本人によって救われるべきです。そして、できるだけ早く典礼の使徒職を始めなさい」と勧めた。

一九五三年と五四年の間に、八名の志願者がはいり、川口の修練者も誓願を立てた。典礼使徒職を進展させるためにも、広い土地と家を東京都の三鷹台に見つけ、一九五四年十月十三日に、そこに移転した。

また師イエズス修道女会は四谷の一角に小さな典礼品店「ピエタ」を開店した。アルベリオーネ神父が一度ここを訪問した時に、シスター・ルチアナに「これは本当にピエタ(気の毒)です。ここはイエスの生まれたベトレヘムのように小さくてだめです。イエスの活動の場であるエルサレムのような所をつくらねばなりません。今日でも、すぐにどこか適当な所をさがしに行ってください」と言った。その日は雨が降っていたが、シスターは「行きます。行きます」と言って、もう一人のシスターとともに、さがしに出かけた。アルベリオーネ神父の言うことだから家は必ず見つかるという信念で雨の中を出かけたのであった。すぐに見つからなかったが、次の朝、四谷見附の目抜き通りのパチンコ屋のガラス窓に「売家」という広告ビラが貼りつけてあるのが日本人のシスター・フィデーレの目にとまった。すぐに聖パウロ会の神父を呼んでパチンコ屋の主人と交渉していただき、売買の話がまとまった。この敷地に現在の「使徒の元后修道院」兼「ピエタ」が建てられ、典礼使徒職の本部となっている。

なお、師イエズス修道女会は、一九七八年十二月、八王子市戸吹町に本部修道院を新築し、三鷹台から移転した。なお東京の若葉、八王子の下恩方町のほかに横浜、大阪、福岡、長崎にも修道院をもち、それぞれ典礼センターを開いている。

注:掲載内容は1978年執筆当時。2019年現在、聖パウロ修道会の東京・赤坂、東京・八王子、福岡・小笹の修道院は閉院。聖パウロ学園高等学校の教育事業から撤退。また、師イエズス修道女会の横浜、福岡の修道院は閉院している。

・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年

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