この時という種 四旬節第5主日(ヨハネ8・1〜11)

私たちは、時々魔がさしたように罪を犯してしまうことがあります。その罪を告白するために、「ゆるしの秘跡」を行いますが、その前に自分の罪を見つめ直す時を設けます。この時、「私が犯した罪」について深く掘り下げていくのではないでしょうか。では、私たちにとって「罪とは」そして、その「罪を赦していただく」ということはどのようなことなのでしょう。

きょうのみことばは、「姦通の女」の場面です。ファリサイ派や律法学者たちは、イエス様を捕らえるための口実を探していました。それで、彼らは下役たちをイエス様のところに遣わします(ヨハネ7・32)。しかし、下役たちは、イエス様を捕らえるどころか「あの人のように話した人は今までいません」(ヨハネ7・46)と言うくらいイエス様の話に感動して戻ってきました。それほどイエス様の教えは、ユダヤ人たちに影響が大きかったのです。

そんな彼らにとってまたとない機会が訪れます。律法学者やファリサイ派の人々は、イエス様が朝早く神殿の境内で人々に教えられていたところに、「姦通の女」を連れてきました。彼らは「先生、この女は姦通をしている時に捕まったのです。モーセは律法の中で、このような女は石を投げつけて殺すようにと、命じています。ところで、あなたはどう考えですか」とイエス様に問いかけます。今風に言うのでしたら「現行犯逮捕」となるのでしょうか、律法学者やファリサイ派の人々は、この女性が姦通の罪を犯しているということを前から知っていて、張込みでもしていたのでしょう。彼らの「先生、この女は姦通をしている時に捕まったのです。」と言う言葉には、イエス様を捕らえるための口実として彼女を利用したと言う用意周到でしかも陰湿な考えが見られます。

彼らのこの訴えは、イエス様が「彼女に石を投げなさい」と答えると、ローマの法を犯すことになりますし(ヨハネ18・31)、イエス様が今まで問いてこられた教えと矛盾することになることを知っていました。また、「彼女を赦しなさい」と答えると、モーセの律法に反することとなるのです。このように、彼らはイエス様がどちらの答えを言われてもイエス様を捕らえるための十分な証拠を得ることができたのでした。

イエス様は、彼らの考えを百も承知でした。イエス様は、身をかがめて、地面に何かを書き始められます。イエス様は、「ああ、懲りない人たちだな、また私を陥れようとしている。」とか、「困ったぞ、どのように答えたらいいのだろうか」とでも思われたのでしょうか。この【沈黙の間】というのは、考えるために大切な時間となるような気がいたします。それは、私たちが重大なことを決断する時に即決するのではなく、時には熟慮して答えを出すことも必要なことだからです。彼らは、イエス様のそのご様子に耐えきれず、執拗に問い続けます。イエス様は身を起こされ「あなた方のうち罪を犯したことがない人が、まずこの女に石を投げなさい」と答えられて再び身をかがめて、地面に何か書き始められます。

ここで、イエス様が何を書かれていたかは、いろいろな説があるようです。ただこのイエス様の2回目に身をかがめて何かを地面に書かれたというのは、人々に自分の心の中の罪を見つめ直す時間(究明の時間)を与えたのではないでしょうか。私たちの中には「『罪を犯したことがない』という人はいない」と言っていいでしょう。大なり小なり何らかの罪を犯しています。みことばにある「年長者から始まって、1人、また1人……」というのは、年を重ねるほどいろいろな経験をし、罪を意識することも多かったからではないでしょうか。

また、【この時】は、姦通の女性にも大切な時間となったことでしょう。彼女は、自分が罪を犯したことを知っていたので「死を覚悟」していたことでしょうか。彼女は、自分が罪を犯すまでのいきさつ、彼との出会い、弱さから陥った罪、夫との関係などを振り返る時間、悔い改める時間となったことでしょう。イエス様は、そんな彼女の心の中をご存知だったのかもしれません。イエス様が地面に何かを書かれている間、人々の目はこの女性ではなくイエス様の指先に行きますし、彼女の目もイエス様の指先に行っていたでしょう。イエス様のこの動作は、彼女への「いつくしみの愛」でもあったのです。

彼女は、イエス様が身を起こされ「……誰もあなたを罪に定めなかったのか」と言われる問いかけに「主よ、誰も」と答えます。彼女のこの答えの中には、まだ、不安な気持ちがあったのではないでしょうか。しかし、イエス様の「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。そしてこれからは、もう罪を犯してはならない」と言われます。彼女は、このイエス様の言葉を聞いて、罪の重みを感じることと同時に、赦されたことの嬉しさ、喜びを感じたことでしょう。

イエス様は、私たちが罪の中で苦しんでいることをご存知です。ですから、イエス様は、究明の時、おん父の愛から離れていた自分を見つめ直す時をくださるのではないでしょうか。私たちは、イエス様がくださった【この時】に心を委ねイエス様に心の中をお伝えすることができたらいいですね。

あなたにオススメ