【故人を偲んで】私の召命のきっかけ 池田敏雄神父

東京へ野心の赴くままに

私は終戦の翌年、すなわち、昭和二十一年の夏頃から、上級学校への受験勉強をしていました。その頃、故郷宮崎にも米軍が進駐して来ましたが、彼らの話す英語の発音がその時まで学校で習った発音と違うことに戸惑いました。しかも英語は敵性外語として排斥されていたので、小学校卒業後、二、三年は一応習ったものの米軍と自由に会話する能力は付いていませんでした。それなら当時十六歳からでも英語を本格的に勉強しようかと思い立っていた矢先に、「宮崎日々新聞」に東京に「中野英会話学校」が開校されたという記事を目に留め、よしこれだと思い、早速ザックに衣類や日用品や米を詰めて昭和二十一年十一月三日に上京しました。

英会話学校は夜間なので、昼問の働き口を当時の下井草教会の主任、故マンテガッツア神父様(宮崎教会で神学生たった方)に相談したところ、四谷の聖パウロ会が焼け跡にバラックの修道院を建設中だから、そこへ行ってみなさい、と勧められました。早速その勧めに従って四谷の若葉修道院に来てみました。

入り口らしい所から敷地内を少し入ると、左側に二階建ての木造家屋があり、一階が食堂、二階が修練院(修練長パガニーニ神父様のもとに桑島神学生、萱場神学生、島田神学生か修練中)、正面奥には完成半ばの横長のバラックー棟があり、敷地内の辺り一面に建築資材が散在していました。そして隣近所の家々は焦土と化し、鉄筋コンクリートの新宿の伊勢丹が焼け残ってよく見えました。

召命案内の最初の神父

しばらくすると、米軍の小型貨物運搬車(ダッチ)をさっそうと運転して来た外人を見ました。この方がここの院長のロレンソーペルテロ神父様だったのです。私かここに来た訳を話すと、即座にOK。仕事は成増の旧陸軍の兵舎を解体してその資材を、このダッチに積み込み、クギの付いている木材からクギを抜いて、揃えることでした。住居としては、中野・江古田にある「ベタニアの家」(フロジャック神父様から借りた木造二階の家)に住むことになりました。

そこから若葉の建築現場に通い、昼間は上記の仕事、夜間は中野の「英会話学校」に通っていました。その後一か月あまりたつと、四谷・若葉のバラック修道院に引っ越しました。横にひょろ長い平屋で、真ん中が玄関、そこを入ると全長約八〇メートルの廊下が左右に伸びていました。廊下の右端が台所(コックは桑島神父様の母親)、左端がトイレと風呂になっていたと思います。外壁の窓枠にはベニア板が一時しのぎに打ち付けてあったので、寒気には体が凍え、冷水の拭き掃除で指に霜焼けの跡が今でも残っています。このバラックの住人は院長のベルテロ神父様のほか、修道士のミケレートラポリーニさん、苦学生三名(安藤富士夫氏、上村肇氏と私)がいました。

マルチェリーノ神父様は病気療養中のため、数か月後にイタリアから戻ってきました。作家の井上ひさしの書いた『モッキンポット師』に出ている廊下、すなわちボールを廊下の左端に置くと自然と右側に転がる……というくだりは、若葉修道院の粗末な廊下を模したものでしょう。彼も苦学生としてパウロ会の「中央出版社(現・サンパウロ)」で倉庫番をし、そこで寝泊まりしていたと書いてありますから、多分私かローマ留学中か、司祭叙階後、赤坂修道院に赴任中のことでしょう。

召命の準備は心身の鍛錬から

さて四谷・若葉修道院の聖堂は中央玄関から入ると、廊下をはさんだ真正面の大部屋と記憶しています。毎朝のミサを共同であずかり、その後院長様と一緒に黙想。それが終わると、修練院の一階食堂で苦学生だけの食事。ご飯は大きな貝殻に似た金属製の器で型を付けられ、それをひっくり返してお皿に盛りつけたもの。今のお椀にしてみれば、八分目ぐらいだったでしょうか。それが一杯限り。それに詳細は覚えていませんが、ミソ汁と漬け物。終戦間もない物資不足の時代で日本人の大部分が飢えていた時代ですから、どうしようもありません。当時の神父たちは知人を介して埼玉・新潟あたりまで食料の買い出しに出かけたと聞いています。たまに米軍の軍用食で飢えをしのぎました。食後は朝の掃除をすませて、仕事を始めました。昼食後も作業に出かけ、夕方作業が終わると、英語の勉強です。

召命へのきっかけは誰かの一声

この日程を繰り返して翌昭和二十二年の二月頃、パガニーニ神父様が、私に声をかけてくださいました。「上智大学を受験してみないか」との有り難いお招きでした。

私はこれを両親に知らせ、了解を得た上で受験に必要な書類を取り寄せました。運良く旧制予科に合格しましたが、その予科には「ラテン語哲学科」というクラスがあって司祭を目指す教区や修道会の神学生約四〇名で、その中に驍名の一般信者学生もいました。要するに私は司祭への召命に組み込まれていたのです。同年四月には同じクラスの故・前田神学生のほかに、同級の大学生三名と寝食を共にしました。

上京前後の召命訓練

以上のように私の召命はドラマチックではなく、ごく平凡に多くの人との関わりの中で生まれたものと思います。第一段階はサレジオ会員の受け持つ宮崎教会で幼児洗礼を受け、少年の時から土曜は毎週赦しの秘跡を受け、日曜のミサでは侍者としてラテン語による奉仕、ミサ後はクループに分かれて公教(カトリック)要理の暗記、午後は聖体訪問とベネディクション、休憩の時には教会の広い庭で遊んだ記憶があり、特に土曜・日曜に教会に行くのが楽しかった思い出があります。十二、三歳の時、聖堂に隣接した伝道場で遊んでいる時、主任神父様が私の耳元で「神父様にならないか」とつぶやいたのを未だに覚えています。

四旬節には黙想会の他に、金曜日の夜には聖堂内の壁に掛けられている主の受難図を一つ一つ巡り、その前で「十字架の道行きの祈り」をし、死者が出た場合には死者ミサの後、ロザリオを唱えながら野辺の送りをし、クリスマス直前の夕方から伝道場で宮崎小・中神学校(日向学院の前身)の学生による劇、演芸会、無声映画の上映が行われ、夜中に三回のミサにあずかり家路につきました。青少年育成の使命を帯びたサレジオ会員に養成されたことが、後の司祭への召命の土壌になったのは間違いないと思います。

召命の第二段階はパウロ会員の手本と寛大な導き、高等教育を授けられたこと、著作の時間と場所が与えられたために今の自分があると確信しています。もしこれが無かったら、社会貢献度の低い生活に甘んじているに違いありません。

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