おん父の愛に気づくという種 四旬節第4主日(ルカ15・1〜3、11〜32)

春から、大学や就職などで親元を離れ、新生活を始める人がいるのではないでしょうか。彼らは、不安もあるでしょうが、自立への一歩という気持ちや開放感も同時にあることでしょう。もしかすると、ちょっと羽目を外す人もいるのかもしれません。

きょうのみことばは、『放蕩息子』の喩え話です。みことばは、「徴税人や罪人たちがみな話を聞こうとして、イエスのもとに近寄ってきた。」という言葉から始まっています。彼らはユダヤ人たちの社会から【罪人】というレッテルを貼られ、蔑まれ、精神的に辛い生活を送っていたのでのではないでしょうか。徴税人たちは、ユダヤ人から税金をとってローマに収めていました。そのとき規定以外の金を徴収していたようです(ルカ3・12、ルカ19・8)。彼らは富を築き裕福な生活をしていたでしょうが、心の中は満たされない気持ちもあったのではないでしょうか。彼らは、「今の生活を変えなければ」と思ってイエス様の所に話を聞きに集まってきたのかもしれません。

イエス様は、そんな彼らの気持ちを嬉しく思われ、一緒に食事をします。さぞかし、彼は自分たちの思いや辛かったことを分かち合いイエス様から赦されたことを喜び、和やかで豊かな食卓を囲んだことでしょう。しかし、そんな彼らを快く思わない、ファリサイ派や律法学者たちは「この人は罪人たちを受け入れて、食事をともにしている」とつぶやきます。聖書の中で【つぶやき】と書かれてあるときには、「不平や不満」を意味しているようです。ファリサイ派や律法学者たちは、イエス様が徴税人や罪人たちと食事をしていることに対して、不平を言ったのでした。イエス様は、そんな彼らに対して自分たちの傲慢さに気づかせるために3つの喩え話をされます。この3つの喩え話には「見失ったものが見つかってともに喜ぶ」という共通の場面が出ています。

きょうのみことばでイエス様は、『放蕩息子』の喩え話を話されます。この話は、2人の兄弟のうち弟が父親に自分がもらう分の財産を要求します。そこで、父親は資産を2人に分けてやります。弟は、父親から分けてもらった自分の取り分をまとめて遠い国に旅立ちます。私たちは、この箇所で弟の行動に目を向けがちですが、「父親は資産を2人に分けてやった」とありますので、当然兄に対しても分けているのです。しかし、兄は自分がいただいた資産を使わずにとっておいたのでしょう。

弟は、遠い国へ行きそこで放蕩に身を持ち崩し、財産を無駄遣いしてしまいます。みことばには、「遠い国」とか「その地方」という言葉がいくつか出てきます。これは、いずれも「父親(神)から離れた状態」を示し【罪の状態】を表しているようです。弟は、父親から離れた所で無駄遣いをして財産を使い果たします。私たちは、おん父からいただいた財産をいかに【無駄遣い】していることでしょう。この話の少し前にある『実がならないいちじく』の喩え話の主人の言葉にも「なぜ、土地を【無駄】に使っているのか」(ルカ13・7)とあります。

偶然でしょうか、弟が財産を使い果たしたときに【その地方】に飢饉が起こり、食べる物にも困ってしまいます。「弱り目に祟り目」という言葉がありますが、時として、おん父はご自分の方に向かわせるために、あえて試練を示されることがあるようです。弟は、ここで生きるために最も必要な「食べ物」が断たれ【死】を意識します。そこでようやく父親のもとから離れたことを後悔します。みことばは、「私たちがどん底の状態にならないと【悔い改めない】という弱さを持っている」ことを教えているではないでしょうか。

弟は、本心に立ち返り、立って父のもとへ行きます。悔い改めるために「立ち返り」、「立つ」ことが必要と言ってもいいでしょう。彼は、死を前にして【立つ】という力を見出したのでした。その姿をおん父は、いつまでも待っておられます。父親であるおん父は、弟(私たち)を見つけ、憐れに思い、走り寄って首を抱き、口づけを浴びせます。これがおん父のいつくしみの愛なのです。父親は、一番善い服を着せ、指輪をはめ、履物を履かせます。このことは、罪の奴隷から解放されたことを表しているのではないでしょうか。父親は、「この子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」と言って祝宴を開きます。この言葉は、怒って家に入ろうとしない兄にも言っています。

一方、畑から帰ってきた兄は、弟のために祝宴を開いていることに腹を立てます。この喩え話は、兄の態度をファリサイ派や律法学者としているようです。父親は、家から出てきて「子よ、お前はいつもわたしとともにいる。わたしのものはすべてお前のものだ。」と兄に言います。兄(私たち)は、自分が父親(おん父)から愛され満たされていたということに気づかなかったのです。

きょうのみことばは、おん父が兄にも弟にも同じように「いつくしみの愛」を注いでおられることを示されているのではないでしょうか。私たちは、その愛に気づき【悔い改める】ことができたらいいですね。

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