同伴者イエス様に気づくという種 四旬節第2主日(ルカ9・28b〜36)

私たちは、何かをするうえで目標がある時と、目標がない時とではモチベーションが違うのではないでしょうか。例えば、毎年正月に行われている駅伝ですが、選手たちは良い記録を出すため、優勝をするという目標を持って、日々の苦しい練習をおこなっています。駅伝に限らず私たちは、日常の中で小さな目標や大きな目標を定め、完成に向かって歩んでいるのではないでしょうか。

私たちの最終的な目標は、【天の国】に入ることです。パウロは、「わたしは善い戦いを戦い、走るべき道程を走り終え、信仰を守り抜きました。この後、私たちのために用意されているのは、義の冠だけです。」(2テモテ4・7〜8)と伝えています。私たちは、日常の生活の中で何か目標を意識しながら歩むことができたらいいですね。

きょうのみことばは、【主の変容】の場面です。イエス様は、弟子たちにご自分が受ける【受難】について語られました。弟子たちは、自分たちが師として仰ぐイエス様が十字架につけられて死ぬということを受け入れられませんでした。イエス様は、そんな弟子たちに対して【天の国】の栄光のお姿を表されます。イエス様は、受難について語られてから8日後に祈るために、ペトロとヨハネとヤコブを連れて山に登られます。ここでルカ福音書だけが8日後と記しています。これは、イエス様が復活した後に「8日後」(ヨハネ20・26)にトマスに現れたとあるように原始教会の暦か、ヘレニズムの暦を意識したようです。

ルカ福音書は「イエス様の祈る姿」を度々記しています。きょうの箇所でも「祈るために山にお上りになった。祈っておられると、……」と2回【祈る】という単語が出てきます。ルカ福音書でイエス様が祈られる時には、その後に大切なことを示されるようです。イエス様は、ご自分の【受難】について祈っておられたのではないでしょうか。そして、祈っておられるとイエス様の顔の様子が変わり、衣が真っ白に輝きます。このことは、イエス様の【天の国の栄光】のご様子を表しているようです。ご変容されたイエス様はモーセとエリアと一緒にご自分がエルサレムで成し遂げようとする最期について語られます。この箇所は、律法を代表するモーセと預言書を代表するエリアという旧約聖書全体を通してイエス様がなされるおん父のご計画である【受難と復活】について語られたことを意味しているのではないでしょうか。

この素晴らしい栄光の状態にいたのにも関わらず弟子たちは、睡魔と戦っていました。みことばは、「ペトロとほかの2人は、ひどく眠かった。それでも目を覚ましていると、イエスの栄光と、イエスとともに立っている2人の人を見た」とあります。弟子たちは、最後の晩餐の後にイエス様がオリーブ山での祈りの時は眠ってしまいます(ルカ22・39〜46)。イエス様は、そんな弟子たちに「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈りなさい」と言われます。この【眠り】というのは、外部からの攻撃に対して無防備という状態ではないでしょうか。そのため、イエス様は、「誘惑に陥らないように、起きて祈りなさい」と言われます。弟子たちは、イエス様がオリーブ山で【ご受難】のことを祈られる時、また今回のモーセとエリアと共にご自分の最期(十字架上での死)について語られている時にはなぜか【眠気】に襲われるようです。彼らの姿は、私たちの姿なのかもしれません。私たちは、イエス様がお苦しみになられている時、その苦しみのあまりにも大きさに共感することができずに目をそらしてしまうのではないでしょうか。日常での生活の中で起こる十字架を私たちはどのように受けて入れているのでしょう。

ペトロは、弟子たちを代表して「先生、わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです。3つの仮の庵をつくりましょう。……」と言います。弟子たちは、この状態をいつまでも留めて起きたかったのでしょう。私たちは、栄光の状態、神体験という恵みの状態のような特別な場を少しでも長く体験したいという傾向があります。しかし、残念ながら日常の中では、そのような素晴らしい状態を保つことはできません。おん父は「これはわたしの子、選ばれた者。彼に聞け」と弟子たちに対して言われます。おん父は、モーセやエリアとイエス様が語られているような素晴らしい状態だけに酔うのではなく、現実の生活の中で「イエス様に聞き従いなさい」と伝えておられるのではないでしょうか。

私たちの生活は、華やかで輝いた状態よりも地道な日々の繰り返しの時が多いものです。そのような時にこそ「イエス様に聞き従うこと」が大切なのです。おん父は、私たちが【天の国】という目標に到達するためにご自分の子であるイエス様を同伴者としてお与えてになられました。このイエス様は、いつも私たちが【睡魔】に襲われている時にも側におられ、「誘惑におちいらないように祈りなさい」と言っておられます。私たちが弱さのために誘惑に負けてしまっても側におられます。四旬節の間、改めてイエス様が側におられることに気づき、祈り深めることができたらいいですね。

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