神か自分かという種 四旬節第1主日(ルカ4・1〜13)

私たちは、「これは『神様からの試みかな、それとも悪魔の試みかな』」と時々迷うことがあります。この二つの【試み】の違いは、「神様に近づくものか、遠ざけるものか」ということではないでしょうか。悪魔は、私たちがおん父よりも自分を満足させる欲求を使って私たちに試みます。ここに【自我】の葛藤が起こってきます。自分の欲求を満たすという【自我】と、その弱さを受け入れておん父へ向かうという【自我】です。きょうのみことばでイエス様がまず試みに遭われ私たちに、二つの違いを気づかされておられるのではないでしょうか。

みことばは、「イエスは、聖霊に満ちてヨルダン川からお帰りになった。そして、霊によって荒れ野に導かれ、40日の間、悪魔の試みに遭われた。」と書かれたところから始まっています。ここで不思議なことですが、イエス様が洗礼を受けられ聖霊に満たされたということは分かるのですが、なぜ【霊】によってわざわざ荒れ野に導かれ40日の間、悪魔の試みに遭われなければならないのでしょうか。私たちは、試みに遭わなくても早くイエス様にみことばを宣べ伝えてください、と考えてしまいます。確かに、きょうのみことばの後に「それから、イエスは、霊の力に満ちてガリラヤにお帰りになった。その評判は周りの地方一帯に広まった。」(ルカ4・14)とありますので、洗礼を受けてすぐにガリラヤにお帰りになられてもよかったはずです。

ここで、大切なことは、【霊】の導きということではないでしょうか。イエス様は、おん父のみ旨に忠実なお方でした。たとえイエス様は、荒れ野で悪魔の試みに遭われることになるとしても、それがおん父のみ旨でしたらお受けになられますし、そこには、おん父への信頼と愛があると言ってもいいでしょう。それと、同時に荒れ野で悪魔からの試みに対してイエス様は、ご自分の言葉ではなく、すべてみことばを使われて悪魔の試みを遠ざけられました。もう一つの意味としては、イエス様は私たちが受けるであろう【悪魔の試み】をまず自らお受けになられたという私たちへのいつくしみの愛があるのでないでしょうか。

荒れ野にいる間、イエス様は何も口にされなかったので、その期間が終わった後には、空腹を覚えられます。ここでイエス様は、人としての「空腹感」を覚えられます。そんな時に最初の悪魔の試みが起こるのです。食欲は、私たちが生きるために大切な欲求です。もし、この欲求がなかったとしたら私たちは生きてくことができません。悪魔は、イエス様が空腹の時に「もしあなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい」と言います。もちろん、イエス様はなんでもお出来になられますから、石をパンにすることは難しいことではありません。しかし、イエス様は【ご自分の欲求】を満たすためには奇跡を行われません。それで、イエス様は、「『人はパンだけで生きるのではない』と書き記されている。」と言われて、悪魔の試みを遠ざけられます。

次に、悪魔は、イエス様を高い所に連れて行き瞬く間に世界のすべての国々を見せ「あの国々をすべて支配する権威と、その栄華をあなたに与える。……もしあなたがわたしを拝むなら、すべてあなたのものになる。」と試みます。第2の試みは、【権威欲】です。権威は、私たちに方向性を示し、目標に向かって進むために必要なものです。しかし、悪魔の試みは「わたしを拝むなら」というように「自分を」というところが一つのポイントなのです。私たちは、権威を自分のために使うのか、人のために使うのかという判断に苦しむことがあるのではないでしょうか。イエス様は、「『あなたの神である主を礼拝し、ただ主のみに仕えよ』と書き記されている」と言われます。

最後に悪魔はイエス様をエルサレムの神殿の頂に立たせて「もしあなたが神の子なら、ここから身を投げなさい。なぜなら、このように書き記されている。」と言います。この試みは、自分を過大評価させる欲求です。ここで初めて悪魔は、詩編の言葉を用いてイエス様を試みます。この詩編の箇所の後に「彼がわたしを慕うなら、わたしは彼を救い出す。彼がわたしの名に親しむなら、わたしは彼を守る。彼がわたしを呼び求めるなら、わたしは彼に答える。」(詩編91・14〜15)となっています。この詩編の箇所は、たとえ身を投げたとしても【おん父】を慕い、親しみ、呼び求めるとならおん父が助けてくださる、ということを伝えているのですが、悪魔はこの【わたし(おん父)】を省いていて詩編を用いたのです。イエス様は、「『あなたの神、主を試みてはならない』」と言われて悪魔の試みを遠ざけられます。

悪魔の試みとイエス様の教えは、どこが違うのでしょうか。それは、【神】か【自分】か、ということではないでしょうか。イエス様は、聖霊に満たされ、導かれて荒れ野に行かれます。このことは、たとえ私たちが悪魔の試みにあったとしても、聖霊に満たされ、導きに従っている時、試みを遠ざけられるということを教えてくださっているのではないでしょうか。私たちは、日常の中で起こる【試み】に対して、【神】か【自分】か、という見極めができたらいいですね。

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