64. 最初の長い旅――マスコミの先駆者アルベリオーネ神父

一九四五年(昭和二○年)の十二月、アルベリオーネ神父は、聖パウロ女子修道会の総長と共に北米へ巡察旅行の途にのぼり、初めて船で大西洋横断をしたが、その時、こうもらした。

「私が子供のころは、三輪車だけでしか旅行できなかったが、それも馬ではなく、乳牛が引っ張っていたもんだよ!」また港へ向かっている時に、こう打ち明け話もした。「はじめて学校から遠足に出かけた際に、不慮の病に襲われて、自分を臆病者と呼んででいた同級生たちから、ひやかされた」と。アルベリオーネ神父の大好きな熱いコーヒー一杯が出されると、よくこう言ったものである。「私の母が、これを見ていたらなあ! 私の家庭ではコーヒーは祝日の時に、たまにしかのまなかったものだよ。」

しかし、アルベリオーネ神父は、船か飛行機に乗ってしまうと、幼少年の思い出はなくなり、いつものアルベリオーネ神父に戻り、広報使徒職ひとすじに生きて来た人として、すべての考えは、そこに集中するのであった。うわつらしか知らない国へ入国するには、それなりの心備をしていた。「そこの人口はどれだけか?」など充分に情報をえていなければ、旅の連れに聞いた。

それゆえ、師イエズス修道女会の総長は、神父のくせを知っていて、神父と旅行する時は、いつもデ・アゴスチニ発行の小さな地図を手にたずさえて、聞かれればすぐにその資料を提供できるようになっていた。またその総長は、飛行機で飛び越えてゆく国々のことについても必要な情報を集め、その国々のために、何かしなければならないことを、そのために必要な司祭と修道女らの数などについても知らせていた。休息と祈り時間以外は、旅行中のアルベリオーネ神父は、こうした種類の計算をたえず行っていた。

ある共同体を訪問している間は、身が二つあっても足りないほど忙しかった。誰であっても訪問客の話を静かに忍耐して聞き入った。また頼まれれば一日に一○回でも喜んで説教した。普通は修道生活について、使徒としての熱意について、四終について説教した。また新しい事業を勧めたり、企画を検討したり、信頼心を起こさせたり、まわりの人たちとの接触を保ちながらも、会の精神を純粋に保つよう励ましたりした。聖パウロ会のためにどうしても必要であればその国々の教区長たちにも面会した。

そしてプログラムが終わり次第、一刻も早く次の訪問予定地へ向かった。一刻も時間をむだにしたくなかったのである。神父は本部以外にいると、特別に時間が足りないと感じていた。本部が神父のいる場であった。船のカジを取る船長にも似て、そこから遠く離れざるをえない段になると、できるだけ早くカジの所へ帰らねばならないと思っていた。ローマの焼けつくような夏に、「しばらく涼しい所に行きましょう」とさそう人に向かって、神父は、「私のポストはここだよ」と相変わらず応えていた。

外国の修道院への訪問は、多くのパウロ会員たちによれば、あまり短かったと言うが、アルベリオーネ神父は、新しい訪問国で受けた印象については、常に多くは語らなかった。ただわかっていることは北米に初めて行った時、聖書が幅広く普及されていることに、強い印象を受け、イタリアでも同じ方式をまねてやることを提案したのであった。北米からの帰途、パリの聖パウロ会を訪問し、ローマに着いたらしばらくしてスペインとポルトガルの修道院を訪問し、会員や志願者の士気を鼓舞し、必要な物質的、精神的援助を与えた。

・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年

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