「主よ、あわれみたまえ」と言えるという種 年間第6主日(ルカ6・17、20〜26)

私たちがミサの始めに「回心の祈り」を唱えた後司祭は、「全能の神がわたしたちをあわれみ、罪をゆるし、永遠のいのちに導いてくださいますように。」と祈ります。司祭はイエス様の代理者として「回心の祈り」をした私たちに対して、「……永遠のいのちに導いてくださいますように。」と「罪のゆるし」と「天の国へと導く」祈りをしてくださいます。その後私たちは、「主よ、あわれみたまえ。キリスト、あわれみたまえ。主よ、あわれみたまえ」という『あわれみの賛歌』唱えます。私たちは、この『あわれみの賛歌』をどのような気持ちで唱えているでしょうか。

私たちが、心の中で「自分の罪深さ、弱さ、貧しさ、苦しみを思い、そんな私をどうぞ『あわれんでください』」という気持ちで祈る時、『あわれみの賛歌』は、【私の全て】を主に捧げる祈りとなることでしょう。ここに、私たちの謙遜さとともに三位一体の神の「いつくしみの愛」があるのではないでしょうか。

きょうのみことばは、『幸いと不幸』についてイエス様が弟子たちに語られる場面です。マタイ福音書では、『山上の説教』(マタイ5・1〜12)と言われ、「幸い」という部分が特に記されていますが、ルカ福音書では多少短くなり、「幸い」だけでなく「不幸」についても記されてあります。もう一つの違いとしてマタイ福音書は、『山上の説教』と言われるように「……山にお登りになった。そして、腰を下ろされると、弟子たちが近寄ってきた。」(マタイ5・1)と「山に登られ」、「腰を下ろす」というように、イエス様を【ラビ】として表しています。

一方、ルカ福音書では、「イエスは使徒たちとともに山を下り、平らなところにお立ちになった。」となっています。ユダヤ人的な考えを用いたマタイと違い、ルカは異邦人的な考えを表し、イエス様の救いが天から人々の中に降りてきてくださり、さらに、ラビが人々に教える【座る】という姿勢ではなく使徒たちとともに【立つ】という姿勢、つまり私たちの中に入られる、交わるイエス様を表しているようです。

きょうのみことばには、書かれてありませんが「……群衆はみな、イエスに触れようとひしめきあっていた。それは、すべての人を癒やす力が、イエスから出ていたからである。」(ルカ6・19)と書かれてあります。群衆は、山から降りてくださったイエス様の所に押し寄せ、イエス様の教えを聞き、癒されたのでした。このような状況の中でイエス様は、弟子たちに目を注がれて語られます。イエス様は、どのような眼差しで弟子たちや群衆に注がれたのでしょう。少し、黙想してみるといいかもしれません。

イエス様は、「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなた方のものである。」と言われます。イエス様は、自分の所に集まった群衆の姿、その中には様々な苦しみ、悩み、病いを持った人々がいることを感じ取られ、憐れに思われたのでしょう。彼らは、今まで多くのラビや律法学者たちの話や教えを聞いたり、相談したりしていたのではないでしょうか。また、医者にかかりそれでも癒されないという人もいたのかもしれません。人々は、イエス様を知り触れることで、今まで満たされなかったものが満たされ、癒されていくということを体験したのです。

イエス様は、そのような彼らに向かって「貧しい人は幸いである。」と言われ、続けて「今、飢えている人々は、幸いである。あなた方は満たされる。今、泣いている人は、幸いである。あなた方は笑うようになる。」と言われます。人々は、まさに、【今】癒されたという体験をし、喜びに満たされていたので、イエス様のこの言葉が「自分のことを言われている」と感じ取ったことでしょう。イエス様は、彼らが感じている「病い」「飢え」「悩み」など様々な苦しみから解放された【喜び】こそが【天の国】と言われているのではないでしょうか。

さらにイエス様は、癒された彼らがご自分と共に歩む時、周りの人々から中傷され、迫害され、それだけではなく「名を汚らわしいものとして葬り去る」というその人の「全人格を否定する」という苦しみを味わうとき「あなた方は幸いである」と言われます。イエス様は、彼らがたとえ人々から多くの苦しみを受けても、ご自分への信仰と愛に満たされた喜びを味わっているから、そのまま【天の国】の報いを受けることができると言われているのではないでしょうか。

次にイエス様は、「富んでいるあなた方は、不幸である。」と話されます。イエス様は、前の「三つの幸せ」に続いて対照的な「三つの不幸」を話されます。「三つの幸せ」を感じている人は、自分たちがちがイエス様に信頼して歩まないと救われることができない、【天の国】に入れないということを知っていました。しかし、「三つの不幸」に当てはまる人は、この世的な富、権力、楽しみに満足している人たちですから、いずれ虚しさや飢えを感じるようになり【不幸】であると、イエス様は、言われているのではないでしょうか。

私たちは、この【不幸】な面への傾きや誘惑に襲われます。そんな時、イエス様に向かうという「主よ、あわれみたまえ」という謙遜さを祈ることができたらいいですね。

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