61. 聖座法による修道会への昇格――マスコミの先駆者アルベリオーネ神父

先に述べたようにアルベリオーネ神父はパウロ会を教会法による修道会と認めていただいたが、それは、あくまでアルバ教区内だけに留まって自由に活動しうるという意味である。出版物を他の教区に持って行って普及販売するくらいならまだしも、他の教区にパウロ会支部を設立するには、そこの教区長の許可がいるし、ましてや外国に支部を設立するには、ローマの布教聖省の認可が必要である。

ところが、アルベリオーネ神父は、パウロ会が教区法による修道会に限定されたことに満足しなかった。教区法による修道会であれば、司教がこの修道会の力をも財産をも自由に動かすことができるが、会の総長はそれだけ手足をしばられることになる。これではパウロ会の特殊目的となっているマス・コミ使徒職を自由に、幅広く行うことはできなくなる。

アルベリオーネ神父の目ざしていたパウロ会は教区内では司教の配下にありながらも、独立して自由に独自の使徒職を果たす修道会にしたかったのである。そのためどうしてもパウロ会を聖座法による修道会に昇格させたいと頑張ったのである。

しかし、それには複雑な手続きがいる。普通の形式的な手続きをしていたら、長い間、パウロ会の活動意欲は押さえられ、足ぶみを強いられることになる。今までの観想修道会、半観想修道会と違い、全く新しい型の活動的修道会なのだから、急激な会の発展は、今までの悠長な設立許可手続きにはついていけない。せっかく教会や社会国家のために、いっそう役に立つことを大々的にしようとしているのに、この活動力を眠らせるのはもったいないと考え、アルベリオーネ神父は、まず実績を見せてから、あるいは見せながら聖座の許可を仰ぐことにした。

実績を積んでおいてから許可をうるというアルベリオーネ神父流のやり方は、第一次大戦後、復員してきた神学生を司祭に育て上げたことによって、有力なものと証明されている。しかし誤解してはならないことは、アルベリオーネ神父は、法律の網をくぐり、ずるく立ち回って人の迷惑をも考えずに即成事実を作っておいてから当局に事後承諾を求めたのではない。むしろ聖霊の神感が、あるいは摂理のみ手が時を移さずアルベリオーネ神父を動かし、人間的な思惑やこの世的な営みよりも一歩先んじて愛の活動に駆り立てたと見るほうが正しかろう。

たしかにアルベリオーネ神父がジャッカルド神父をローマに派遣して支部を設立させた時も、事前にローマ教区長の許可はもらっていなかった。しかし、ジャッカルド神父の良い人柄やその聖徳、および会員や志願者たちの信心、清貧、勤勉さ、出版物による教会への献身的な奉仕などで、善い評判を取り、ついには聖パウロ大聖堂の聖ベネデイクト会修院長シュステル神父(のちの枢機卿)の推せんでローマでも教会長の認可をうることができた。

また一九三一年から三四年にかけてアルベリオーネ神父は、布教聖省の許可もえずに、また十分な資金も与えずに会員たちを外国に派遣し、支部をつくらせた。こういうやり方は、たしかに無謀であり、虚栄であると見えるかも知れない。しかし、創立者の身になってみると、普通の手続きの仕方では、時間はかかるし、自分の寿命も限れているし、本当にお金もない、ぐずぐずしては、できることもできない。ただ聖霊の勧めのままに信仰に生きるしかないと思い切ったのである。

会員たちにも、その信仰の精神を吹き込み、実際にイエスが使徒たちを宣教につかわすに当たっていましめられた次のことば、つまり「金銀や銅貨を帯に入れてはならない。旅袋も、二枚の上着も、くつも、杖も持ってはならない」(マタイ10・9~10)といういましめにならわせて外国に派遣したのである。これらの会員たちも、福音と創立者の精神に従って諸外国に支部を設立し、熱心に修道生活と良書出版による宣教と社会のために大いに貢献した。

これらの実績をふまえてアルベリオーネ神父は一九三五年(昭和一○年)十二月二十九日にパウロ会を聖座法による修道会にしていただくための準備として修道者聖省の秘書官バゼット師あてに手紙を出した。その内容を要約すれば次のようなものであった。「一九三七年(昭和一二年)は、私たちの小さな会が教区法による修道会として承認されてから一○年目になるが、この年にパウロ会の司祭全員を集めて、本会の特別の使命にどのように応えているかと調べていただき、さらにパウロ会の総長を任命し、総会を開かせてくださいというのは、どんなものか、その意見をたまわりたい。」

この手紙を出してから一か月あとにバゼット師から次の返事が来た。「働きなさい。総会で時間をつぶしてはいけない。総会をするための旅行費を使ってはいけない。今は働いて、団結を固めなさい。同時に、教皇庁の認可を得るための会憲をつくりなさい」と。

それでアルベリオーネ神父は、外国に派遣した初期のパウロ会司祭たちに会憲草案をつくるための有益な意見を書いていただきたいと頼んだ。

その後、一九三八年(昭和一三年)十月、アルベリオーネ神父は修道者聖省にパウロ会の昇格を正式に申請した。当時、創立以来二四年目のパウロ会には誓願者は二八五名、そのうち司祭一二○名、神学生九五名、修道士七○名、修練者四五者、志願者六○○名がいた。

このほかパウロ会の散在するイタリア各地の司教の推せん状や外国の司祭の推せん状が修道者誓省に送られ、パウロ会の昇格を有利に導いたのである。

そして、いよいよ一九四一年(昭和一六年)五月十日、念願の聖座法による修道会昇格認可状すなわちパウロ会の会憲を賞賛する推奨状(Decretum Laudis)がピオ十二世より出された。そしてパウロ会の会憲を向こう七年間だけ試験的に認可された。聖座としてはさしあたり会憲は認めるけれども、七年間の修正期を与え、パウロ会の成り行きを見たのちに、最終決定をすることにしたのである。

この七年間にアルベリオーネ神父は、教会法にくわしいパウロ会員フェデリコ・ムッツァレリ神父の助けをえて会憲をラテン語に書き直し、大部分修正し、書き加えたのであった。

さて聖パウロ修道会が聖座法に昇格したことでパウロ家の他の姉妹会も比較的容易にこのレベルまで昇格した。聖パウロ女子修道会は推奨状を一九四三年十二月十三日に、会憲の最終認可を一九五三年三月十五日にいただき、師イエズス修道女会は推奨状を一九四八年二月十二日にいただき、会憲の最終認可を一九六○年八月三十日にいただき、善い牧者修道女会は一九五三年六月二十三日に教区法による修道会承認をいただき、五七年に聖座法による修道会に昇格した。

さてアルベリオーネ神父は第一次大戦の始まった年にパウロ家を創立し、教会の内外からの非難、反対に屈せず、戦後の混乱した社会の中で悪戦苦闘しながら、いちおうマス・コミ使徒職を軌道に乗せた。しかし、まもなく、その事業に次の大きな試練が襲いかかってきたのである。ドイツではナチスの軍靴がザクザクと成り、イタリアではファシズムの嵐が吹き荒れ、ヨーロッパ全土に第二次世界大戦の足音が刻々と迫っていたのである。

・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年

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