水を汲むという種 年間第2主日(ヨハネ2・1〜11)

教会の典礼は、「待降節」「降誕節」そして「主の洗礼」をお祝いした後に「年間」となりました。一般の社会も「クリスマス」「年末年始」を経て「通常」に戻っています。みことばも、イエス様が宣教を開始する場面となります。C年はイエス様の【最初の徴】である『カナの婚礼』の箇所が朗読されます。きょうのみことばは、一つの【婚礼】の物語として味わうのではなくイエス様の救いとはどのようなものなのかという目で読むとまた違った味わい方ができるかもしれません。

きょうの箇所に入る前にイエス様は、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった後ヨルダン川の向こう側のベタニア付近におられたのでしょう(ヨハネ1・28)。この場所は、死海の北側にある町です。洗礼者ヨハネは、自分の弟子に「見るが良い。神の小羊だ」(ヨハネ1・35)と伝えます。これがきっかけとなってアンデレとシモン・ペトロとフィリポとナタナエルという4人がイエス様の弟子となります。イエス様は、ベタニアからイスラエルをガリラヤに向かって北上する中でこの4人と出会われ、彼らと共にガリラヤのカナへ行かれたのです。そして「3日目」にきょうのみことばであります『カナの婚礼』の場に着かれます。この「3日目」というのは、イエス様が十字架上で亡くなられて「3日目」に【復活】されたことを想起させます。イエス様の【復活】を通して全世界に福音が広がったように、この『カナの婚礼』によってイエス様の【福音】が全世界に広まるはじめの一歩となることを表しているのかもしれません。

 みことばは「3日目にガリラヤのカナで婚礼があり、イエスの母がそこにいた。イエスも弟子たちもその婚礼に招かれていた。」とあります。まず、マリア様がカナの婚礼の場所におられ、イエス様と弟子たちが後から到着するのです。ここには、イエス様と弟子たちと共にマリア様の存在が福音宣教に欠かせないということを表しているのではないでしょうか。ちなみに【婚礼】とは、「神と人との和解」を比喩的に用いるようです。そう考えますとこの『カナの婚礼』はマリア様、イエス様、そして弟子たちを介して成就される「神と人との和解」の【最初の徴】と言ってもいいのかもしれません。

日本での結婚式は、式と披露宴を含めて大体の1日で終わりますが、パレスチナ地方では、3日間から7日間ほど続き、招待客も家族、親戚はもちろんその友達と大勢の人が招待せれていたようです。ですから、当然ぶどう酒もかなりの量が必要でしょうし、予め準備した量でも足りなくなることもあったことでしょう。マリア様は、母としてまた女性としていち早くそのことを察しイエス様に「ぶどう酒がありません」と言われます。マリア様がイエス様に言われた時には、「ぶどう酒がなくなりかけたので」とありますから厳密には「なくなった」ということではないのですが、万が一ぶどう酒が切れて新郎新婦の両家、または、この家族が恥をかかないように前もってイエス様に「ぶどう酒がありません」と伝えたのではないでしょうか。これは、マリア様が私たちの生活を見守っているということなのかもしれません。

イエス様は、マリア様のこの声掛けに対して「婦人よ、それがわたしとあなたとにどんな関わりがあるのでしょうか。わたしの時はまだ来ていません」と答えられます。イエス様の口から出るとは信じられない言葉ですが、これは、「母よ、ぶどう酒が足りないというあなたの人間的な心配りと私が行うおん父への栄光の業とどう関係があるでしょうか。まだ、本来の使命である『十字架』の時は来ていません」ということを伝えようとしているのではないでしょうか。この「婦人よ」という言葉は、十字架上でイエス様がマリア様に言われる「婦人よ」という言葉を想起する場面でもあります(ヨハネ19・27)。

しかし、マリア様は、イエス様の声が聞こえなかったのか、聞こえないふりをしたのか給仕たちに「何でもこの人の言うとおりにしてください」と言われます。イエス様は、置いてあった清めに用いる石の水瓶(みずがめ)6つに水をいっぱい入れるように命じます。この「清め用の水」とは「神との関係を相応しいものとするために体を清潔にするために『水』」だそうです。イエス様は、その水瓶の水を使って「ぶどう酒」に変えられます。このことは、イエス様がご自分の血で私たちを贖ってくださったということを意味しているのではないでしょうか。そして、給仕たちが運んで行ったその水は極上のぶどう酒に変わっています。それは、イエス様の私たちへの「豊かな愛」と言っても良いでしょう。

イエス様の【いつくしみの愛の徴】は、なぜそうなったのかを人は知りません。知っている人は、イエス様から使命を預かった人なのです。イエス様は、私たちの身近におられ、マリア様からの要請にちゃんとお応えになられます。その時に働くのは、私たちなのかもしれませんし、私たちの周りの「誰か」かもしれません。私たちは、イエス様やマリア様の声に敏感になって「水」を汲むことができたら良いですね。

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