悲しみの聖母

「悲しみの聖母」の記念日は、9月15日です。元来、この祝日は、十字架上のイエスと苦しみ・悲しみをともにする母マリアを記念するものでした(9月14日の「十字架称賛」の祝日の翌日に祝われるのはこのためです)。ところが、歴史上だんだんと、マリアが救い主イエスの母として体験しなければならなかったさまざまな苦しみ(一般的には7つの苦しみに代表されるもの)を記念する日となっていきました。この日には、私たちが現実に体験する喜びや悲しみを、その表面的な理解を越えて、「神の救い」という視点から見つめなおすよう招かれています。

「悲しみの聖母」の記念日には、福音朗読の箇所として、ヨハネ19・25〜27か、ルカ2・33〜35のどちらかを選ぶよう定められています。ヨハネ福音書の箇所は十字架の下での出来事、ルカ福音書の箇所は神殿での幼子イエスの奉献の際の出来事が記されています。今回は、ルカ福音書を取り上げることにします。というのも、ルカ福音書1〜2章は、マリアを喜びと悲しみの両方から描き出しているからです。

ルカ福音書で、マリアが最初に登場するのは、お告げの場面です。マリアに対する天使の言葉は、祝福と喜びにあふれています。冒頭から、「おめでとう、恵まれた方」とのあいさつがマリアに向けられます(1・28)。そして、「マリア、……あなたは神から恵みをいただいた」と言われ(30節)、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」と言われます(35節)。

その後、マリアはエリサベトのもとに奉仕に行きます。エリサベトは聖霊に満たされてマリアに言います。「あなたは女の中で祝福された方です」(42 節)、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(45節)と。マリアは、これに応えて歌います。「わたしの霊は……神を喜びたたえます」(47節)、「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」(48節)と。

大きな祝福と喜びに満たされた者として描かれているマリア。この描写は、マリアにすばらしい未来が待ち受けていることを読者に期待させます。

ところが、その後に続く物語では、この期待を裏切るような描写が続きます。マリアが子どもを生んだのは旅の途中で、しかも宿屋には泊まる場所がなく、生まれた子を飼い葉桶に寝かせなければなりませんでした(2・1〜7)。それは、洗礼者ヨハネの誕生の出来事(1・57〜66)と比べると大きな違いです。ヨハネの誕生の時は、「近所の人々や親類」が集まって「喜び合い」ました(57節)。一方で、マリアには、旅の苦しさがあったばかりか、親戚や知り合いと喜びをともにすることすらゆるされなかったのです。

そして、物語は神殿でのイエスの奉献へと進みます。ここで、預言者シメオンは、神をたたえる一方で、マリアに「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」(2・35)と述べています。

最初に語られていたあの「祝福」や「恵み」、「喜び」や「幸い」はどこに行ってしまったのでしょうか。まるで、すべてが覆されてしまったかのようです。マリアは、恵みに満ちた幸いな方なのでしょうか、それとも苦しみに満ちた不幸な者なのでしょうか。

マリアに対するこの描写は、救いという視点で見た時に、喜びや幸せと苦しみ・悲しみが共存すること、いや真の幸せのためには苦しみや悲しみはむしろ必要であることを教えているように思います。

私たちは、このことを逮捕を前にしたイエスの苦しみの中に見てとることができるでしょう。イエスは、オリーブ山で祈りながら、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」(22・42)と祈ります。「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(44 節)と記されています。その苦しみは、「天使が現れて、イエスを力づけ」(43節)なければならないほどでした。イエスは、これほど苦しまれました。「この杯を取りのけてください」と嘆願しているのですから、イエスもこの苦しみから逃れたかったのです。しかし、イエスは同時に祈ります。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(42節)と。

苦しみは避けたい。しかし、それが神の定めてくださった救いの道なのだとすれば、自分にとっては、それこそが幸いなことなのだ。だから、たとえ苦しまなければならなくとも、神よ、それを行ってください。私は、それを喜びとします。イエスの思いは、このようなものだったのでしょうか。

苦しみは、私たちにとって辛いものです。なぜその苦しみがあるのか、なぜ苦しまなければならないのか、私たちにとっては理解できないことがほとんどです。その理不尽さに怒りをあげることもあります。しかし、もしそれが神の定めてくださったことで、私たちの救いに必要なことであるならば、私たちはこの苦しみの中にあっても、救いの喜びにうちふるえることができるのだ、ということを、イエスの受難と十字架やマリアの苦しみは教えてくれているのではないでしょうか。

苦しみのないユートピアのような喜びではなく、この苦しい現実の中に真の喜びとその意味を見い出していくことこそが大切であること。それが「悲しみの聖母」のメッセージのように思えてなりません。

最後に、この記念日に、教皇ヨハネ・パウロ2世の使徒的書簡『サルヴィフィチ・ドローリス──苦しみのキリスト教的意味──』を一読されることをお勧めします。苦しみは、私たちにとって、生きていく上で避けて通ることはできないものであり、完全には理解することのできない神秘の一つです。しかし、そんな苦しみに積極的な意味があることを、キリストは自らの生き方を通して、示してくださいました。そんな苦しみのキリスト教的意義を、教皇様が簡潔に、力強く説明してくださっている書簡です。

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