でもという種 年間第20主日(ルカ12・49~53)

私たちは、ときどき「でも○○」という言葉を使うことはないでしょうか。例えば、「あなたが言っていることはわかります。でも、そのようなことでは、うまくいきませんよ」とか「甘いものを食べ過ぎると体に悪いことはわかっています、でも、我慢することができないのです。」とか、使ってはいないでしょうか。

このようなとき、この「でも」の後ろ側には、【自我】が見え隠れしているような気がいたします。自分のやり方、自分の意見、自分の意思、こだわりがあるということは、すばらしいことですが、それだけに固執してしまうと、コミュニケーションがうまく取れないということ、相手と反発してしまう危険性も生まれてきます。

ときには、相手の話に耳を傾け、相手を受け入れ、自分自身の心の中をのぞいてみるという「心の余裕」も必要なのかもしれません。

きょうのみことばは、イエス様の「わたしは地上に火を投じるために来た。火がすでに燃えていたらと、どれほど思っていることか。」ということばから始まっています。イエス様は、時々、私たちが驚くような言葉を使われます。イエス様が言われる「地上に火を投じるために来た」という言葉は、どのような意味なのでしょうか。イエス様は、今、エルサレムに向かって歩まれています。それは、おん父のみ旨である、受難を受けるためです。その前に、イエス様は人々を癒し、みことばを教え、ファリサイ派や律法学者の頑なな考えを諭そうとされています。しかし、人々の頑なな考えは、そう簡単に変わることはありませんでした。彼らは、自分たちの考えを変えること、今までの平穏な社会、生活を変えてまで、イエス様の教えを受け入れようとしませんでした。

このイエス様の「わたしは地上に火を投じるために来た。火がすでに燃えていたらと、どれほど思っていることか。」という言葉は、頑なな人々への嘆きとでもあるのかもしれません。イエス様が言われる「地上に火を投じる」という【火】は、聖霊の炎と言えるかもしれません。イスラエルの人々が、おん父から遣わされた数々の「預言者」の教えに耳を傾け、彼らの言うことを素直に聞いていれば、おん父は、イエス様を地上にお遣わさなくてもよかったのです。しかし、人々の心は頑なに自分たちの生活や考えを変えようとしませんでした。そのため、おん父は、ご自分の子であるイエス様を地上にお遣わしになられたのです。イエス様のこの嘆きの言葉は、預言者の言葉に耳を傾けようとせず、自分たちの生活を平穏に保とうする人々に対するものなのだったのかもしれません。

イエス様は、続いて「わたしには受けなければならない洗礼がある。それが成し遂げられるまでは、わたしはどんなに苦しい思いをすることであろう。」と言われます。ときどき、私たちは、「○○の洗礼を受ける」という言葉を耳にすることはないでしょうか。もちろん、その【洗礼】は、私たちがいただいている秘跡としての【洗礼】ではなく、例えば、どこかへ出かけ、困難な状況に出会ったときに「○○の洗礼を受けました」とか、使っています。イエス様がここで使われている【洗礼】も、私たちが受けている秘跡としての【洗礼】ではなく、これから受けなければならない【受難】ということを意味しているようです。イエス様は、十字架という洗礼を受け、人々を救うためには、どんな苦しみでもお受けになられると言われているのです。これは、イエス様の私たちへの“いつくしみの愛”なのです。私たちは、陶芸家が作る器のようなものといってもいいでしょう。陶芸家は、自分が作品を作っても気に入らないものは、壊し、また新しい作品を作ります。私たちは、おん父に創られた器のように、取るに足らないものです。その私たちは、イエス様の“いつくしみの愛”によって救われるものとなったのです。

イエス様は、「あなた方は、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない、あなた方に言っておく。むしろ分裂である。」と言われます。イエス様は、ここでも私たちを驚かすような言葉を使われます。本来ですと、イエス様は、「地上に平和もたらすために来た」という言葉を使われるはずですし、「分裂」という言葉も使われません。イエス様の教えは、当時の人々には、「耳がいたい言葉」だったのでしょう。彼らは、「あなたの教えはすばらしい、でも今の社会では通用しない。そんなことをする人はいませんよ」と心の中で思っているのではないでしょうか。これは、私たちの今の生活の中でも言えるかもしれません。しかし、イエス様の言葉に耳を傾けた人もいます。イエス様が言われる「分裂」は、イエス様に耳を傾けた人、と耳を傾けない人との分裂ということではないでしょうか。
みことばを黙想しながら、「私の心の中に、『でも』という気持ちはないだろうか」と振り返ってみるここができたらいいですね。

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