「腑に落ちない」話が……

どうにも納得がいかない、というのを「腑に落ちない」と言います。ところが、納得できたときに「腑に落ちた」と言うのを聞くことがありますが、正しい日本語の表現なのかなと思うことがあります。あるいは「腑に落ちない」の逆で、それまで疑問に思っていたことが十分に説明されて心から納得したときに「お腹にストンと落ちた」と言う言い方もします。いずれにしても、「納得できない」=「落ちない」というのは、何かが胸に引っかかってつかえたままになっていたものが、「納得できた」=「落ちた」というのは胸のつかえが下りたということなのですから、すっきりしたということなのでしょう。

ずいぶん前に、ある黙想会でゆるしの秘跡を受けに来られた方から、罪の告白ではなくで、ある悩み事の相談を受けたことがありました。幸いに時間は十分にありましたので、その疑問に時間をかけてやさしく答えながらお話ししたところ、どうにか納得して安心されたようで、最後に「分かりました、ありがとうございました」とおっしゃって立ちあがり、告解場の出口のドアを閉める直前に、長年の胸のつかえが下りたことを喜ぶかのように、「ああ、すっきりした!」と独り言をつぶやかれたのが聞こえたのです。思わず吹き出しそうになりました。本当に実感がこもっていました。「腑に落ちた」のでしょう。

この10年来、関西の黙想の家で毎月一度、土曜日の夕方から日曜日の午後まで一泊黙想のお手伝いをしているのですが、昨年の暮れ、知り合いの信者さん夫婦からその黙想会の後、足を伸ばしてご自分の教会まで来て信者さんに話をしてくれないかと頼まれたことがありました。快く引き受けて時間を調整して準備をしていたある日、電話で私に話して欲しい話の内容についての相談がありました。それは、ご自分の教会に最近、プロテスタント教会からの改宗者が何人かいて、その人の中にカトリックについて納得できない部分があるそうなので、そのことを分かりやすく説明して彼らの疑問を解いてやってくれないか、ということでした。その疑問とは、キリスト教にとって必要なのは福音書であって、それ以外のものは必要ではないのではないか、ということや、聖母マリアに対するカトリックの考えに納得がいかない、といったものでした。私にとっては意外な提案で、それでは講話でも説教でもないのか、と思い、自分の中で何かしら訳の分からない葛藤のようなものが湧いてくるのを感じました。そしてそれが少し強い口調の言葉となって表れているように感じました。「プロテスタントからカトリックに転回するのには、教義や典礼などに関してそれなりの納得をして来られたはずではないのか。納得いかないのであれば、そのときの担当の主任司祭なりにその疑問を持ちかけて教えていただくのが筋ではないのか。私は彼らを納得させるために行くのか。」どうも自分の仕事ではないように思えたのですが、最後には、「言うべきことはそのとき教えられる」というイエス様の言葉(マタイ10・19)を思い出して、あまり悩まずに出掛けることにしました。

その日は月曜日で、集まりは午前中の2時間くらいでした。教会主催の黙想会というわけではありませんでしたので、集まった人数も14、5人くらいの小じんまりとしたものでした。あらかじめ頼まれていた内容を忘れていたわけではありませんが、時間が経過していたのか、私の中には、疑問に答えるというよりも、福音のメッセージを伝えるということしか念頭になかったような気がします。

「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(ルカ1・45)という、エリザベトがおとめマリアに対してささげた称賛の言葉が、そのときのテーマでした。マリア様は大天使ガブリエルから、「あなたは身ごもって男の子を産む」(ルカ1・31)というお告げを受けますが、「どうしてそのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言ってそのお告げを拒否する反応を示します。しかし、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と言われる……神にできないことは何一つない」(ルカ1・34~37)と言われ、マリア自身の疑問は何一つ解決されたわけではなく、「腑に落ちなかった」にもかかわらず、「主がおっしゃったことは必ず実現する」と信じて、「お言葉どおりこの身に成りますように」(ルカ1・38)と言ってお告げを引き受けます。

エリザベトが聖霊に満たされて叫んだマリアへの称賛の言葉は、ただ単にマリアに対してのみ言われたことではなく、マリアの子であるキリストの弟子すべてに言われた預言でもあることを忘れてはならないのです。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じる人は幸い」というのは、私たちに対して、主キリストが言われたすべての言葉は、一見困難なように思えても、自分には不可能と思えても、必ず実現するという信仰を持ちなさいという私たちへの聖霊からの励ましであるのです。なぜならイエス様が私たちに「おっしゃったこと」の究極の言葉は、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである」(ヨハネ15・26)というお約束なのです。「主がおっしゃった」ことを自分の力で実現しようとするのではなく、聖霊がそのことを実現させてくださるという信仰は、マリア様の中で証しされたものです。

以上の内容で話をしたのですが、すべてのプログラムが終わって解散した後で、事前に電話で私に話の内容について依頼をしておられた方が、意外なことを私に教えてくださったのです。それは私が話していたときに、私のすぐそばに座って話を聞いていた女の方が、実はカトリックのマリアについての考えに納得がいかないと言っておられた方だってそうなんですけれど、話の後で、「おかげで胸のつかえがストーンと腹に落ちた」と言っておられたというのです。

私の中には、そのような思いは全くなかったのですが、言うべきことはそのときに教えられてことを実感した次第です。

このマリア様の話は、昨年のこのコラムの「実現する」というタイトルで書いたことの繰り返しですが、その後に起きた出来事でしたし、私にとっては嬉しいことだったので、重複するのは承知の上で書かせていただきました。

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