パンをいただいた!

東京教区内のある小教区に、ほぼ女性ばかりの祈りの集いがあります。あるとき私はその集いの責任者から、集いの指導司祭になってくれないかと頼まれ、快く引き受けてはみたものの、何を指導するのかははっきりしていませんでした。はっきりしていなかったからこそ、あまり深く考えもせずに引き受けたのですが、ずっと後になってその理由が分かったような気がします。理由が分かっていれば引き受けなかったということではなく、引き受けたことに意味があったのだなと思っています。

指導者となってどれくらいの時がたったころだったのか記憶にないのですが、実はその集いは大きな問題を抱えていることを知りました。しかし知った後でもそれが自分に関係があるとは思いませんでしたので、どこにでもある問題なんだろうと、他人事のように考えていました。その大きな問題というのは、それほど大きくはないその祈りの集いを二分してしまいそうな分裂の危機でした。

集いの責任者はその集いが発足して何年くらいたってからその仕事に就いたのは詳しいことを私は知らなかったのですが、ずいぶん長い間その集いを滞りなくまとめているという良い印象を私は受けていました。ところが、理由はあまり判然としなかったのですが、その集いの中の数人のグループが、同じ人がいつまでも責任者であるのはおかしい、別の人に変わるべきだと強烈に主張しだしたのです。一方で、別のグループの数人は、今の責任者はこの集いのことをよく把握していて適任であり、別の人に変えてはいけないと、これまた絶対に後には引かない様子で強烈に反対したのです。その責任者ご本人は、自分に反対する人がいるのなら交替しても構わないとは言っていましたが、交替に絶対反対の人たちはそれを許しませんでした。

私は最初それを傍観しながら、どっちでもいいよ、と呑気に構えていました。どちらの言い分も正しいし、間違ってはいませんでした。ところが、のんびりと傍観してもいられない差し迫った状況に直面せざるをえなくなってしまいました。責任者が私に、「神父様、どうにかしてください」と矛先を向けて来たのです。「どうにかしてください」と言われてもなあ、と困ってしまったのですが、逃げるわけにもいきません。これが指導司祭として請われた理由だったのかと思いましたが、いつものように、どうにかなる、と腹をくくり、集いのメンバー全員に、日時を指定して、そのとき皆で話し合いましょう、ここにいない人にも知らせて、出来るだけ多くの人に来てもらうようにと伝えさせました。

と言ってはみたものの、紛糾しているその問題を収拾させる秘策が私にあったわけではありません。全く、何の解決策も思い浮かばないまま時間が過ぎ、遂に皆に知らせておいた指定の日になってしましました。午後一番に話し合いが行われる予定のその日は、朝から私の心の中を、まるで嵐の前の黒雲ように、何の知恵も思い浮かばない暗い気分で一杯にしていました。

ところがそんな私の心に思い浮かんだ一つのみ言葉がありました。そのころ黙想会などの機会に話していたテーマに引用していた福音書のみ言葉です。

「あなたたちのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』するとその人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何かを与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(ルカ11・5~10)

以上の個所の中の、「友よ、パンを三つ貸してください」というみ言葉が思い出され、そのみ言葉を私は祈りにして、「主よ、パンを貸してください。私には彼らに与えるパンがないのです」と繰り返し祈っていました。しかし何のパンも与えられないまま、集いの場に着き、そして祈りが始まりました。

話し合いはその祈りの後に予定されていました。しかし私には何の策も思い浮かばないまま、時間だけが刻々と近づいて行きます。そのとき一人の人が突然、「み言葉を朗読します」と言って、ルカ福音書の1章にある「マリアの賛歌」の「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(ルカ1・46)を読み始めたのです。そのみ言葉を聞いたとたん、わたしの心の中に電流が走ったようでした。「あっ、これだ、パンが与えられた!」絶対的な確信の直感を身に覚えました。

祈りの時間が終わり、司会者から促されて私は話を始めました。

「先ほど、どなたかが『マリアの賛歌』をお読みになりました。これはラテン語のグレゴリオ聖歌などでもよく歌われる個所で、ラテン語の最初の言葉を取って『マニフィカト』と呼ばれている喜びの歌です。でもこの喜びの『マニフィカト』は何もないところからいきなり生まれたものではありません。この喜びの歌が生まれる前に何があったか思いだしましょう。マリア様は、『あなたは身ごもって男の子を産む』と天使から告げられますが、それに対して、『どうしてそのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに』と言って最初は反論します。しかし天使がその反論に答えて、『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる』と言ったとき、マリアは一人のおとめとして何一つ理解できなかったにもかかわらず、すべてを聖霊に託し、委ねて、『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように』とすべてを引き受けます。「なりますように」という言葉もラテン語での言葉の最初の言葉を取って、『フィアット』と呼ばれています。そしてその後、マリアがエリザベトを訪問して、エリザベトから、『主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう』と言われたときに、初めて『マニフィカト』が生まれたのです。このようにマリア様は、最初は天使のお告げに対して、『どうして』と反論しますが、聖霊にすべてを委ねて『フィアット』と言ってすべてを引き受け、その結果、心からの喜びの『マニフィカト』が生まれたのです。ところで皆さん、今この集いでは、一つの問題に対して二つのグループがお互いに『どうして』を主張し、譲り合って『フィアット』を絶対に実現させてはならないという悪霊の誘惑に自分を委ねるばかりで、聖霊が私たちに降ることを信じようとしないことが一番大きな問題となっています。祈りの集いに関することなのに、聖霊に対する信仰を無視して、『どうして』ばかりを主張していたら、いつまでたっても心からの『マニフィカト』は生まれません。今、マリア様に倣い、私たちも人間的には受け入れがたいかもしれないこの『どうして』をすべて聖霊に委ねて『フィアット』に変えていきましょう。そうすれば必ず私たちにも『マニフィカト』が与えられます。」

そして集いは終わりました。何一つ不満も不平も生むことなく、静かに喜びの中で問題はすべて解決しました。これは「主よ、パンを貸してください。私には彼らに与えるパンがないのです」と祈った結果、パンが見事に与えられた奇跡だと私は今でも心から信じています。そして先に引用したルカ福音書の個所の最後のみ言葉、「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」も、「主がおっしゃったことは必ず実現する」と心から信じています。

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