ガラパゴス

一九五〇年代、私が小学三年生か四年生のころで、ある夏の夜のことだったとはっきり覚えています。私はその怖い話を上半身ランニングシャツ姿で聞きながら、かすかに震えていました。父親に「震えとっとか?」と笑われて、「震えとらん!」とむきになっていましたが、その話は怪談ではなく。実は母親が祖母(私からは曾祖母)から聞いたという終末の話、そのときの言葉で言うならば、世の終わりの話だったのです。話の全容は覚えていませんが、その粗筋は次のようなものです。

教会の昔からの教えによれば、この世は二〇〇〇年余りだという。今は一九五〇年代だから、あと五十年くらいしたら世の終わりが来るはずだ。そのころにはお父さんやお母さんはもう死んでこの世にはいないと思うが、お前は六十歳くらいだからまだ生きている。聖書にはこの世は一度水によって滅ぼされた(ノアの洪水の話)と書かれてあるが、今度は火によって滅ぼされると言われている。

母親は話が上手で、ときどき話してくれた怪談も真に迫っていて、身の毛がよだつような覚えをしたこともあったくらいです。そんな話とは別の意味で、やはり真に迫っていたのでしょう。幼い私をかすかに震えさせるくらいの内容だったのだろうと思います。

昨今の異常気象が地球温暖化のせいだ、という情報に接するたびに、私はこの母親の話を思い出すのです。いつかある小教区でのミサの説教でその話をしたら、信者の皆さんに一笑に付されてしまいました。母親の話を信じているというわけではないのですが、話すんじゃなかった、と後悔しました。

文明の発達によって地球上が汚染され、オゾン層が破壊され、平均気温は年々上昇し、氷河は音をたてて解け続け、全世界で洪水や地震が多発するのを見ていると、火によって滅ぼされるという世の終わりの話ではなくて、このままでは地球は加熱とともに滅亡に向かって着実に歩むことになってしまう、とつい考えてしまいます。私だけではないと思うのですが。

そう考えると、人間の一時的な幸福のための文明の進歩というのは、長い世代のための幸福のためには必ずしも益をもたらしているとは言えません。人間が物質的にも精神的にも原点に戻ることを忘れて闇雲に突っ走ってばかりいたら、金儲けのための地球の環境破壊、森林伐採などに見るような、考えてもいなかった結果が待っているのかもしれません。

最近よく耳にしていた「ガラケー」という携帯電話の意味を知って、そうだったのか、と感心しました。正確には「ガラパゴス・ケータイ」と言うのだそうです。南米エクアドルの西にあるガラパゴス諸島がその名前の由来です。ガラパゴス諸島がどんなところであるかぐらいは知っていますが、その島の名が携帯電話に冠されるようになったのは、他の島との接触がなかったために、そこに住んでいる生物が独自の進化を遂げているということになぞらえて、他国の市場やニーズに外れた独自のIT技術や機能を、二〇一〇年ごろまでは普通に使われていたケータイだが、それからは全く進歩していない「ガラパゴス化したケータイ」と呼ぶようになったというのです。でもそれは独自の進化を遂げたという意味ではなく、文明に取り残されたという意味の皮肉が込められています。たぶん、日本だけの呼び名でしょう。実にガラパゴスに対して失礼な話だと思います。

ガラパゴス諸島は決して文明に取り残されているのではなく、文明に毒されていない生物の種のオリジナリティーを保ち続けている貴重な地域なのです。詳しいことは知りませんが、そこもご多分に漏れず、珍しい生物を見るために押し掛けている多くの文明化された観光客によって、やがていつか文明の波に毒されてしまう運命にあるのではないでしょうか。

私はこのガラパゴスという言葉のなかに最近、原点に戻れ、という声を聞くような気がします。その意味で教会の教えの中にガラパゴス的な要素があるし、それをもっと大事にしなければならないとつくづく感じます。それは二千年以上にわたっていかなる文明にも毒されずに原型を保ち続けている信仰形態、聖書の中に息づいている、御言葉と御聖体と十字架に対する信仰です。これをガラパゴス的と位置付けたい理由は、二千年前に生まれたままの形を今日に至るまで保ち続けているその斬新さです。「天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(マタイ5・18)と主は言われます。

思い過ごしかもしれませんが、この信仰の原点は全く新しく光り輝いているのに、人間がつくった文明に馴染んでしまった現代の教会は、それよりもっと目新しいものをと捜し求めて右往左往し、大事なものをどこかに置き忘れている気がしてなりません。教会が組織とか利潤などの御利益的なものを求めるものに変えられてきているような気がします。教皇フランシスコのお言葉に接するたびに、彼が全世界の人々に対して発しておられるメッセージはすべて、福音に帰れ、原点に戻れということではないか、と感じます。

「新しいぶどう酒は、新しい革袋にいれるものだ。そうすれば、両方とも長持ちする」(マタイ9・17)と主は言われます。私たちには、いつも御言葉、御聖体、十字架という出来たばかりの新しいぶどう酒が、隣人を通し、出来事を通し、手を変え品を変えして与えられています。出来たばかりの新しいぶどう酒は、まだそんなに飲みやすいものではないし、抵抗を感じるものですが、それは主が与えてくださる聖霊に対する信仰という、これも出来たばかりの新しい革袋の中に入れることができるならば、それは時間をかけて熟成され、私たちの魂を生き生きしたものに育ててくれます。

しかし聖霊に対する信仰という革袋がなかったら、せっかく主が与えてくださっている新しいぶどう酒は、人間がつくった文明のような古い革袋に入って流れ出て、ドブに、闇に葬り去られてしまうことになります。いや、気づかないうちに人間自身がそれを捨てて踏みにじってしまっているのです。

「現在の『キリスト教以後』の社会において私たちはどのようにしたらよいのでしょうか?使徒や最初の弟子たちが『キリスト教以前』の社会で行っていたことを実行すること以外にありません!イエス・キリストを宣べ伝えましょう!『御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい』(二テモテ4・2参照)。信仰において本来のキリストのものである場をキリストにお返しするのです。パウロと共に繰り返しましょう。『わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています』(一コリ1・23)。『わたしたちは、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています』(二コリ4・5)。」(Fr.ラニエロ・カンタラメッサ講話『世に打ち勝つ信仰』より)

聖霊にのみ信頼して宣教していた使徒言行録時代の原点に戻れということです。キリスト教のガラパゴス島に帰れということです。

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