アンティオキア教会とパウロの関係

使徒言行録を読み、パウロ書簡を読むにつけ、パウロとアンティオキア教会との関係が気になります。第一回宣教旅行のときは、パウロはアンティオキア教会から支援を受けたものの、第二回宣教旅行からは、アンティオキア教会はパウロを支援しなくなっていたと考えるのですが、どうだったのでしょうか?

ご質問の勢いから、パウロの世界にのめり込み、パウロの世界がどんどんわかってきて、おもしろくてたまらないという感じがよく伝わってきます。

使徒言行録によれば、パウロは常にアンティオキア教会から出発し、アンティオキア教会に戻っています。ただご指摘のように第一回宣教旅行のあとのパウロは、アンティオキア教会に長く留まることをせず、戻っては来るものの、そそくさと出発しています。パウロにとってアンティオキア教会は居心地の良い場所ではないかのような記述です。

一方パウロの手紙からは、パウロがアンティオキア教会に所属し、そこから派遣されている事を誇りに思っている様子は、微塵も感じられません。そればかりか、パウロがアンティオキア教会から異邦人宣教に派遣されたという使徒言行録の記述を疑わせるほど、パウロは自分が福音宣教者である事の根拠を「神とキリストから選ばれた」に置いています。まるで「私はアンティオキア教会からは独立している」とでも言いたいかのようです。

パウロは自分がアンティオキア教会に居たときのことを、一度だけ、手紙に記しています。ペトロがアンティオキア教会を訪問した際、ペトロが「福音の真理」から離れた行動をとったために、皆の前でパウロがペトロを批判したという内容です。この事件の結果、人々はペトロに同情を示し、パウロが孤立していったことは十分に考えられます。パウロが手紙の中でこの事件に触れたのは、ペトロ派の人々を牽制するためであったでしょうし、パウロの宣教活動が完全に独立していて、アンティオキア教会の物心両面の支援を必要としなくなっていたからでしょう。

ご推察の通り、パウロの宣教活動は、その出発においてアンティオキア教会の支援を受けて開始され、ペトロとの衝突事件を境として支援が激減したと思われます。それでもパウロは困窮の中で宣教活動を展開し、ついにはアンティオキア教会を必要としなくなるまでに成長したのでしょう。それでもパウロが宣教の出発点と終点をアンティオキアに置いていたという使徒言行録の記述は、アンティオキア教会の中には、少数ながらもパウロを理解し支援する人々が存在したということを示唆しているのではないでしょうか。

●回答者=鈴木信一神父

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