唯一の「教師」、「先生」はイエスという種

ずいぶん前にある司祭が叙階された時に「もし、私が『神父病』になったら、教えてくださいね」と私に言ってくれたことがあります。「神父」は、今まで「神学生」だった人が叙階の秘跡によって「神父様」と呼ばれます。彼が言う『神父病』というのは、神父に【様】がついてしまうことではないでしょうか。いつの間にか、神様から頂いた恵みである「叙階の秘跡」を自分の「権威」として使ってしまう危険性を彼は、知っていたのかもしれません。

きょうのみことばは、イエス様が、人々に「律法学者やファリサイ派」の行いを見ならわないように注意している場面です。イエス様は、今まで散々律法学者やファリサイ派の人のような、宗教界の指導者の傲慢さに対して指摘し、また、彼らからも試されて来ました。その後、イエス様は、群衆や弟子たちに「律法学者やファリサイ派の人々は、モーセの座についている。だから、彼らの言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いは見なってはならない。」と言われます。

他の福音書のマルコやルカは、いきなり「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって……」(マルコ12・38)、「律法学者たちに警戒しなさい。彼らは長い衣を着て歩き回るのを好み、……」(ルカ20・46)と書かれているのですが、マタイだけが、律法学者やファリサイ派が教えていることに対しては、守ること、実行することの大切さを伝えています。「モーセの座」と言うのは、モーセが主である神から「十戒」を受け律法を人々に伝えるという「権威の象徴」のようです。律法学者やファリサイ派の人々は、この「モーセの座」に座り人々に律法を解釈し教えたり、また、裁判官としての役割を果たしていたりしていたのです。ですから、イエス様は、「彼らの言うことはすべて実行し、守りなさい」と言われていたのです。

ただ、イエス様は、「彼らの行いを見なってはならない。彼らは口先だけで、実行しないからである。彼らは重荷を束ねて人の肩に担わせるが、自分たちはそれを動かすために指一本触れようとしない。その行いはすべて、人に見せるためのものである。」と言われます。彼らは、「有言実行」ではなく「有言不実行」だったのです。ここで言う、「重荷」と言うのは、彼らが言う「613もある掟」(マタイ22・36)のことでした。また、「指一本触れようとしない」と言うのは、「指を動かすことすら惜しむ」という意味のようです。彼らは、律法について解釈し、教えますが、その教えを聞いて実行している人々の苦しみ、守ることができない弱い立場の人の気持ちを分かろうとも、手を差し伸べて救おうともしなかったようです。イエス様は、彼らが面倒臭いことはせずに、楽なことや目立つこと、人から持て囃されることを好んでいることを指摘されているようです。私たちは、自分には悪気がなくてもこれらの誘惑についつい陥ってしまう危険性があるかもしれません。心からの謙遜さを祈り求めることができたらいいですね。

イエス様は、「(彼らは)人々から『先生』と呼ばれることを喜ぶ。しかし、あなた方は、『先生』と呼ばれてはならない。あなた方の先生はただひとりで、あなた方はみな兄弟だからである。」と言われます。弟子たちは、イエス様を先生と慕ってついていき、一緒に生活していました。そこには、まったく優劣の差はありませんでした。イエス様は、弟子たちが「先生」と呼ばれるかもしれないことを戒められたのかもしれません。

イエス様は、続いて「誰であれ、地上の者を『父』と呼んではならない。あなた方の父はただひとり、天におられるお方だけである。」と言われます。このことは、肉親の『父』と言う意味ではなさそうです。私たちは、時々血縁に関係なく尊敬している人や何か大きな指針を示してくださった方に対して、「この人は、私にとって父(母)のような人だ」言うことがあります。イエス様は、本当に私たちを導いてくださる方は、「天におられるおん父」だけだと言われているのではないでしょうか。さらに、「教師と呼ばれてもならない。あなた方の教師はただひとり、メシアだけである。」と言われます。イエス様は、唯一の『先生』であり、『教師』なのです。ちなみに、先生とは、いつも共にいて人生のことを教える人であり、教師とは、一つの技術を教える人とされているようです。

イエス様は、「あなた方の中でいちばん偉い者は、みなに仕える者になりなさい。自ら高ぶる者は下げられ、自らへりくだる者は、上げられる。」と言われます。この言葉は、パウロが「キリストは神の身でありながら、神としてのあり方に固執しようとはせず、かえって自分をむなしくして、僕の身となり、人間と同じようになられました。」(フィリピ2・6〜7)と伝えているようにイエス様ご自身のお姿でした。私たちは、いつも側におられるイエス様を唯一の『教師』、『先生』としてそのお姿に習う者となることができたらいいですね。

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