召される日まで 夫津木勇雄修道士

私が自分を神への奉仕に捧げたいという望みを抱いたのは小学生の頃からでした。しかしその決心を深め、熱心に召命の恵みを祈り求めたのは、十六歳の夏、あの感激の「公式初聖体」の時でした。

その後、十七歳から二十歳までの年月は夢のように流れていきました。戦後の混乱はあらゆる秩序を崩壊させ、いたる所に見るも哀れなものがありました。職をなくした多くの人びとが、われもわれもと進駐軍の仕事場に詰めていました。私も初めのうちはそのような人びとの仲間でしたが、幸いに後ほど、山野のさんの世話で進駐軍のチャペルで働くようになったのです。

その頃でした。山野さんに自分は修道生活を希望しているのだと話したことがあったのはーー。

誓願50周年(2001年)

彼は親切に修道生活について、信仰の道について教えてくれ、それだけに頼みがいのある友人でした。しかし彼との楽しい日々も束の間で、彼は仕事をやめ、神父様もアメリカへ帰国してしまわれたのです。もちろん私の仕事も変わりました。

私は二十歳になり、そろそろ身をかためる年頃となり、それに家になくてはならないような存在になってしまったので、父は私のなりゆきを沈黙のうちに、見守っているようでした。昭和二十二年の夏、暑さと労働にくたくたに疲れて家にたどり着くやいなや母が私に言うのです。

「東京から山野さんが来たよ!」

「東京から?」

と、オウム返しに問い返すと、母は、「山野さんはね、東京の聖パウロ会の修道院に行っているそうで、今度、志願者を募集に来たそうだよ」と言うのです。

誓願50周年(2001年)

その時、母は私を呼んでこう言ってくれました。「五人の子どもの中から一人でから神様に召されますならお捧げします、といつも祈っていたのだよ」と、その翌日は何も変わった事もなく暮れていきました。しかし、どうせいつまでも隠すことはできないからということで、母はとうとうそのことを父に告げました。

「東京の修道院から勇雄を欲しいと来とるが・・・」

父は「そいで勇雄はどういう心か」と尋ねた。私は、「行きます」と言い切りました。父はすぐには反対の気持ちを表しませんでした。が、ややあって言いました。「お前は勉強もしてないじゃないか! もし途中で帰ったらどうする。今の年になって行かずとも、父や母を見てくれ!」と優しく言いました。私はこう言われた時、それは当然です。と、うなずきました。

しかし、私は自分の気持ちを母に語りました。母は私を慰め、励まし、修道院行きを勧めてくれました。それで、父に隠れてこそこそ準備を始めたのです。するとある夜、父はふたたび私を呼びつけ、改めて私に尋ね、問いただしました。

「お前は修道院へ行くのか? 行ってもつとまらんと言っているのが分からんのか! どうしても行きたいのか? 父や母がどうなってもいいと思うとなら行け。この親不孝者!」

もの凄い剣幕でした。ついには「勘当する。出て行け!」という言葉が父の口から発せられました。そして母には「この子が修道院に行く時には、弁当も何もいっさい手を出したらならん。手だしをしたなら承知しないぞ!」と怒鳴ったほどでした。

「私は残念ですが・・・そのうちに父の心も和らいで来ることでしょうから、そうなれば必ず参ります」と山野さんとも別れることにしたのです。

誓願50周年(2001年)

一か月も過ぎた頃には私は、逃げてでも! という気持ちになり始めていました。それは父の心が決して和らいでいないと分かったからです。東京へ向かうという前日、父の留守を見計らって荷物を送ってしまいました。今日一時の臨時列車、上野行きに乗るのだ。私は裏口から家を出る。母は勝手口から出て峠へ向かう。峠で落ち合い、駅まで出ると、母は愛する子と別れるに当たって何か言いたいらしいが、胸につまって口からは出ません。私も同じでした。

「お母さん、東京へ電報打ってね! 修道院へ知らせてね!」

東京の四ッ谷駅で電車を降りた。そこは東京駅とちがい一面焼野原と言っていいほどのありさまだった。木造建ての家でまとまった形をしているものは数えるほどしかなく、あとは枯木のように残っている鉄筋コンクリートの建物の残がいのもとにたくさんの小屋が密集しているのみだった。

四谷の聖パウロ会修道院に着いた。その時の嫡しさを忘れることも、とうてい筆舌で言い表すこともできない。ただ喜びで私の全体がつつまれていた。これだけだった。第一に入会できた感謝のため、聖堂へおもむいた。しばらく祈ってから院長様の所へあいさつに行き、それから他の人たちにあいさつして回った。だれもが忙しそうだったが、そのような人びとのどこかに内面の潜心から溢れるものか、なにか品ある特徴、世間の人とは違ったなにかが感じられた。

山野さんは、四谷の修道院のなかを案内し終わると、「赤坂へ行こう、そこが私たちの家だよ」と言った。そのころは四谷に神学生のグループ、赤坂に修道士のグループと二つに分かれていた。

誓願60周年(2011年)

入会して一か月が経った。その間、父のあの言葉が、たびたび耳元で繰り返され続けた。母を想う私の心は痛み、とうとう神経衰弱におちいり、十一月の諸聖人の祝日直後、一度故郷に帰ることとなった。家を出たあの日のことを思うと帰る気にはどうしてもなれなかったが、このままではどうなるかわからない。後ろ髪を引かれる思いで修道院を去り、再び、今度は故郷への旅に出た。

私は荷物を持って、とぼとぼと田んぼのあぜ道を歩いて、ふるさとの実家に近づいていった。私は間の悪さにしぶしぶ玄関をまたごうとした。とたん、父の「ちょっと待て!」という厳しい声が飛んで来た。

「お前は勘当すると言われても黙って家を出て行った男だ! それなのに、どう思ってまたこの家の玄関の敷居をまたごうとするのか! また修道院に行くつもりならその敷居をまたぐな!」

私は唇をかんで黙ったまま、縁側に行き荷物を手に取った。二時間あまり歩いて、兄の家にたどりついてみると留守だった。しかたなくおばの家に行き伺ってみると、みんなはまだ一か月位は帰ってこないということだった。おばは、父と私との関係について分かっていたらしく、こころよく自分の家に泊めてくれた。

十一月も終わる頃、頭痛もとれたので、修道院へ帰る準備のため、出稼ぎに行くことにした。

誓願60周年(2011年)

十二月の暮、パウロ山野さんから手紙を受け取った。それには、一月四日に休暇に帰っている一人の志願者が帰院するから、一緒に来たらどうかと書いてあった。私は母にだけ手紙のことを話し、その時に行くことに決めた。

再び赤坂修道院に戻ってみると、七人の修道士志願者がいた。全く家族的で、いたわり合い、助け合って楽しい毎日を送っていた。毎日毎日、兄弟の少ないのを痛感し、心から、「たくさんの兄弟をあなたのブドウ畑にお送りください」と神に祈った。

その後、私は神のお恵みによって、昭和二十五年一月二十五日、聖パウロの回心の祝日に着衣をゆるされた。つづいて四月に修練期に入ることになり、その前に、しばしの休みに帰ることになった。

帰省した翌日は日曜日だったので、トランクからスータンを取り出し、しわを伸ばした。父も母も黙って見ていた。ごミサに行った折、主任神父様にあいさつした。神父様は私の親戚でもあった関係上、心おきなく話すことができた。

ところが、神父様は急にあらたまって、「なぜ神父にならんのか?」と尋ねた。私がなぜ修道士の生活を選んだかを説明すると、神父様は「世間の人たちは、司祭にもならぬ、結婚もしない者を、ばかだと言って笑うがどうだ?」と問いかさねてきた。「私はばかでもいいのです」と答えると神父様も大声で笑われた。笑ったあとで「そうだね」と私をなぐさめようと、優しさに満ちた声で言われた。「私たちは世間の言うばかになって、神の光栄のため、また人びとの霊魂の助かりのため働き、祈ろうね」と私を勇気づけてくれた。

家に帰り、スータンを片づけていたら、弟がやって来て「一度でいいからそのスータンを着せてくれ」と頼んだ。私は嬉しくなって、「どうぞ、どうぞ」と着るのを手伝ってやった。父も母も、スータンを着ろうとしている弟と、私の二人を興味ありげにじっと見ていたが、突然父が私に向かって、「どれ、父さんにもお前のスータンとやらを着た姿を目の前で見せてくれ!」と頼んだ。私は少し照れくさくもあったが、父の心が動きだしたのを感じて、喜んでその頼みに応じた。すると父は「やっばりお前の方がよく似合うよ」と言ってほめてくれた。

誓願60周年(2011年)

こうして父の心もだんだん和らいできた。そんな時、私たち志願者の係の人が私の家を訪れてくれた。父は「実は、この子は決して修道生活にはつとまらんと思ったばかりでなく、どんな心構えでその苦しみに打ち勝って行けるかを見たかったのです。それに今どき、この貧しいありさまですから。少しはこの子に家を助けて貰いたかったのです。でも今この子の姿を見て安心しました。もう取り返そうとはしません。神様に捧げますよ」と言ってくれた。

私は嬉しかった。重苦しかった心はからりと晴れて、軽やかな気持で家族一同に別れをつげ、修練に入るため赤坂修道院に向かった。三年あまりの苦しい祈りと犠牲のかいがあった。長い試練だった。それだけに嫡しく、心から神に感謝した。

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