ぶどう園で働くという種 年間第25主日(マタイ20・1〜16)

私は、以前しばらくの間修道院を一旦離れて、一般の会社で働いたことがあります。その時に頂いた初めての給料は、僅かでしたがとても嬉しくて、充実感があるものでした。

きょうのみことばは、ぶどう園の労働者の譬え話です。きょうのみことばの少し前でイエス様は、弟子たちにどのような人が天国に入ることができるかということを話されます。その後、ペトロは、「わたしたちは、一切を捨てて、あなたに従って来ました。いったい、何を頂けるのでしょうか」(マタイ19・27)とイエス様に質問をします。イエス様は、その答えの結びとして、「先にいる多くの者が後になり、後にいる者が先になる。」(マタイ19・30)と言われます。そして、きょうのみことばの締めくくりでイエス様は、同じような意味で「後の者が先になり、先の者が後になる」(マタイ20・16)とあります。この二つの節に挟まれているところを見ますと、きょうのみことばでイエス様は、「天の国に入ること」について語られているようです。

みことばは、「ある家の主人がぶどう園で働く者を雇うために、朝早く出かけた。彼は1日1デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。」という文章から始まります。きっとぶどうの収穫の時期なのかもしれません。主人は、その日のために労働者を確保するために朝早くから市場に行きます。パレスチナ地方は、日中とても熱いため朝の涼しいうちから働き始めていたのでしょう。ですから、この「朝早く」というのは、まだ、太陽が昇る前ではないでしょうか。主人は、最初に雇った人数では、仕事がまかなえないと思ったのでしょう。9時ごろ、再び市場に出かけると、何もせずに立っている人がいたので、彼らにも「ぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払おう」と言われます。

主人は、ぶどう園で働く人を得るために何度も、市場に出向き人々をぶどう園に送ります。この「市場」というのは、日常の生活の場でした。イエス様は、その日常の場に出向かれ、そこで天国で働くのにふさわしい人を探されたのではないでしょうか。このことは、今、私たちが生活している「その場」にもイエス様がいてくださり、何度でも私たちを招かれていると考えても良いのかもしれません。

主人は、さらに5時ごろ、出かけると、ほかの人が立っていたので、「なぜ何もせず、1日じゅうここに立っているのか」と言われます。彼らは、「だれも雇ってくれないからです」と答えます。この主人は、彼らに対してどのように思ったのでしょう。けっして、「何もせず、1日じゅう立っている人たち」に対して「怠け者」と叱ったりしません。彼らは、ただ怠けて何もせずに立っていたのではありません。彼らには、養うための家族があったはずです。そのために、仕事を探していたのかもしれません。彼らは、暑い中1日じゅう、不安な気持で立っていたのです。「だれも雇ってくれないからです」という言葉の意味は、そういった不安さと惨めさなどの悲痛な叫びだったのではないでしょうか。

主人は、彼らに対して「憐れみ」を持たれ、せめて1時間でも働いて「ふさわしい賃金」を払いたいと思われたのでしょう。主人は、彼らにいつくしみと愛をもって、「あなた方もぶどう園に行きなさい」と言われます。彼らは、主人に対して感謝し、喜んでぶどう園に行ったことでしょう。

主人は、夕方になって労働者を呼び、「最後に来た者立ちから始めて、最後に来た者たちにまで」1デナリオンの賃金を払います。「最初に来た者たち」は、管理人が「最後に来た者」にも、1デンリオンの賃金を払っているとことを目にします。最初に来た者たちは、最後に来た者たちよりも、多くもらえるだろうと思います。だだ、それは、彼らの勝手な思い込みだったのです。彼らは受け取った1デナリオンを見て「1日じゅう労苦と暑さに辛抱したわたしたちと同じように扱われる」と主人に不満を表します。彼らにとって「ぶどう園で働く」というのは、感謝ではなく「暑さに辛抱」という苦行だったのです。

私たちにとって、天の国の「働き」とは、いったいどのようなものなのでしょう。パウロは、「わたしが福音を宣べ伝えても、誇りにはなりません。そうしないではいられないからです。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしにとって災いです」(1コリント9・16)と伝えています。私たちにとっても福音宣教は、「1日じゅう、暑さの中【辛抱して】」行うもではないのです。私たちは、それぞれイエス様に召されて仕事をしています。パウロは、「わたしは招かれたあなた方が、その招きにふさわしく生活するように勧めます。あくまでへりくだりと優しさを持ち、広い心で、愛によって互いに耐え忍び、……」(エフェソ4・1〜3)と伝えています。私たちは、それぞれの【日常の場】で「福音宣教」をするためにイエス様に招かれました。イエス様に招かれた私たちは、「辛抱」してするものではなく、「へりくだりと優しさの心」をもって「ぶどう園」で働くことができたら良いですね。

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