7. ブラの神学校に入学そして思いがけない試練

ブラの神学校は、レンガづくりの、いかにも威厳のある建てがまえをし、中庭に面したところには、風のよく通る柱廊があり、雨の日でも散歩ができるようにしてあった。ヤコブもその父ミケレも、この静かなたたずまいの環境が気にいって、ミケレは会計係りにヤコブの宿泊費と学費を払った。生徒は当時一六九名いた。

ヤコブは新しい環境に慣れるまで、ずいぶん苦労した。共同生活の規則や日課は相当きびしかったが、ヤコブは、ひ弱いからだをむちうち、耐えに耐えて勉強や祈りに全力をあげた。中学二年の課程の始め、三年、四年の課程も調子よく終えた。成績は中ぐらいの品行方正な生徒であった。人をおしのけてもトップに立とうとする遊びや教師におべっかを遣い、学友の間に目立とうとする要領よさは、苦手であった。温和、ひかえ目、気品や知力、推察力大胆、進取の気性、時間や規則の遵守、教師への尊敬、信心にかけては誰にもひけをとらぬようにがんばっていた。そのため、みんなに好かれ、先生たちや生徒たちに、自然と一目置かれるようになった。

しかし第五年に、一六歳のアルベリオーネは、調子がくるってきた。学友が遊んだり、散歩したりしている間に、ヤコブは夢中になって、いろいろな外国宣教会の布教誌を読みあさり過ぎ、宗教と操行の点数が、今まで十点満点だったのに、八点に落ちてしまったのである。かてて加えて神学校の長上たちは、ヤコブに厳しい宣告を下した。「おまえは神学校には向かないね。ほかの道を歩みなさい」と。ヤコブは激しいショックを受けた。これからどの道を行ったらよいのか迷い出した。

このころの心境をヤコブは、のちに手記でこう述べている。「彼(ヤコブ)は若かった。両親の目に入れても痛くない子であった。兄弟たちに愛され、長上たちに見込まれ、同級生から好かれていた。最も美しい希望が私にほほえみかけているみたいである。私はしあわせと偉大さを夢みがちであり、愛にひたっていた。しかし私はしばしば墓場に思いをはせていた。墓場が私には甘美なもの、望ましいものに思え、少年らしい愛情でそれを慕い、永遠の世界に早くはいりたいと望んだ。そのような考えは私を苦しめるよりも、むしろ、慰めとなっていた。

私の性質のゆえに、称賛と偉大さを渇望する私の本能の、当然な宿命のゆえに荒れ狂った、さんたんたる年が過ぎて行った。
さて今は一八歳を数えるに至った。失望は迷いを伴い、深味へとはまりこんで行く。……しかし神の恵みとマリアは私を救ってくれた。そして今、私は生きていてよかったと思う。まだ元気で長生きできると思う。人間の心の、なんと不思議なこと!」
この手記から見ると、ヤコブの成績低下の原因は人から偉く見られて、わほめたたえられたいという一時的な迷いにあったようである。

のちにヤコブは、この迷いないし空想に傾きながら自己の認識を深めて、同じ手記の中に、こう述べている。

「空想が、傲慢と虚栄、無知へとおまえをさし向ける。探求することを許さず、愛の力をことごとく破壊する。それは、空想によって、愛の力が現実不可能なことにつぎ込まれるからであり、従って、目的も目標もなく働かされるからである。空想は、祈りや謙虚さを妨げ、思索的な面にも実行的な面にも理性を遣うことを妨げる。また、一方ではふざけさせ、他方では、あてもなく働かせるというばかげた態度をおまえにとらせ、おまえが落ち着いて行動することを妨げる。

もし、おまえを動揺させ、混乱させる、このばからしい、つまらない空想さえなければ、おまえは自分に打ち勝てるであろう。空想は、おまえの努力をすべて壊し、おまえは、ただ愚かな空想のために空しく働く。今、空想がおまえの上により大きい勢力をふるっている時である。悪魔は、かつておまえの滅びのもととなったこの空想による以外、おまえをいざなう方法を知らないようだ。主は、おまえがはたして確固としているかどうかをごらんになるため、おまえを最も激しい試練におあわせになる。もしそれに打ち勝つならば、やがて愛を得るであろう。勝利は働く人のものである。力と勇気を出せ。動きは目的に近づくほど速度を増す。マリアよ、私を助けてください。

結局は一種の錯覚にすぎない空想や煙に身を任せる者は、愚か者か白痴である。せめて、それが理性によるものならば、まだがまんしょう。誉れを得るのは決して空想ではなく、理性だけがそれを得る。真の味わいのある、心の誉れは、思わぬ時に訪れるものだからである。

気まぐれなものであってはならない。力と勇気を出せ。始めることは皆にできる。しかし、続けることは、ただ偉大な人と強い人にだけできることである。『マリアよ、私を救ってください。』」また、ほかの確実な資料によると、神学校を出された理由は、のちにアルベリオーネ神父自身がほのめかしているように、「悪い友だち」と「聖体拝領の怠り」と「悪い本の乱読」にある、と思われる。ヤコブは、始めの頃、布教に関係ある本を読んでいたが、だんだん布教とは関係のない本までもむさぼり読みだしたのである。当時、秘密結社の一種であるフリーメーソン団員や社会主義者たちや自由思想家たちが、宗教に反対して堕落した聖職者の私生活をばくろし、「司祭はペテン師で、のらくら者で、生者や死者の血を吸って生きている」などと中傷文を書き立てていた。こんなことを書いた本を、悪い友だちき、机の下からそっとヤコブに渡した。

これらの悪友は、すでにキリストの弟子として完徳を追求し、福音伝道に出かけ、人びとの救いのために働くという理想を捨てていたので、こちこちの「盲信者」とみなしていたヤコブにも同じ経験をさせようとしたのである。こうしてヤコブは勉強にも信心にも熱を失い、思いかけない方向に走り出し、迷いの道に踏み込んだのである。

一九○○年(明治三三年)四月七日、ヤコブはブラの神学校を中途退学してケラスコの父の家に帰ってきた。あと三ヶ月がんばれば、中学課程も卒業できるというのに、ヤコブとしては、司祭になりたい望みをすてていないだけに、よほど苦しんだに違いない。父ミケレは、ヤコブに家へ帰るように勧めた。「私はおまえにいつも言ってきただろう。これで司祭になる素質がないということがはっきりしただろう。家に帰って、百姓でもしなさい」と。この年の夏の湿っぽい暑い空気は、いっそうヤコブの身につらく感じられた。セミが木の上でジイジイと鳴いていた。ヤコブはニレの木陰で読書し、これから先の身のふり方をあれこれ考えた。何をしょうか?

ヤコブは弟トマスの話によると、ヤコブは神学校を中途退学してからは、口数少なく、畑の仕事のかたわら、六○冊の本を読破した。そして将来、マスコミの使徒となる素地を着々と築いていたのである。そのほかに、よくない読書によって、心を乱すこと、迷いのもとになることも、ヤコブはこの試練によって痛いほど感じていたに違いない。また出版物がヤコブに与えた幅広い、永続的な影響力は、のちほど出版使徒職の中に生かされ、青少年たちに希望と夢を与え、家庭には、神のみことばを送り届けることによって、心のやすらぎと救いを与えたのであった。暑い夏が過ぎ、新学期の十月、ヤコブは司祭志望の夢をあきらめきれずに、こんどはアルバの神学校に入学しようと決意した。そのころの手記は、こう書いている。「善行を続けることは、偉大な人物、能力のある人のわざである。始めることはだけでもできる。しかし、中途でやめることは弱虫、卑怯者、また善にしろ悪にしろ大したことの何もできない人のやることである。この人たちは、浮き雲のように風に吹き飛ばされて恥じを受けることであろう」と。

そのころ、ヤコブの兄のジョワンニ・ルドビコは、父と畑仕事をしながらアルベリオーネ一家を支えていたが、ヤコブのしょげかえった痛ましい姿を見るに見かねて、ある日ヤコブと二人だけになり、腹を割って話してみた。

「ねえ、ヤコブ、おまえが、本当に勉強にむいており、見込みがあると自分で思うなら、勉強を続けなさい。畑仕事なんか考えなくていいよ。おまえが、いなくたって、なんとかやってゆけるように、私がもっと頑張って働いてみるから……」。

さらにヤコブを慰め、勇気づけたのは、ケラスコのサン・マルティニ教会の主任司祭ジョワンニ・バプチスタ・モンテルシノ神父の助けであった。この主任司祭は、ヤコブが小学校に入った当時から知っていた。ヤコブが夏休暇中でも忠実にミサにあずかり、聖体を拝領し、長い間聖堂で祈っていることも、主任司祭はよく知っていた。ヤコブは年よりもませて布教について、教会の一般問題について、司牧問題について、青少年の教育について、よく主任司祭と語り合った。同じ年頃の青少年のよくやる遊びや気晴らしにヤコブは興味を持たず、成人した大人のような考え方や行動をしていた。それで主任司祭もヤコブに一目おいて、司祭への道にむいていると早くから考えていた。それなのに今度の中学退学でヤコブの素質を台無しにして社会のためにも教会のためにも大きな損失となると考え、主任司祭はヤコブのために何とか道を開いてあげようとアルバの神学校にヤコブを紹介することにした。もちろんヤコブの両親に相談してから、当時の校長ヴィットーレ・ダヌッソ神父に会い、ヤコブをアルバ神学校に入学させていただきたいと頼んだ。校長は自分に厳しく、人には理解を示す寛大な人であったので、ヤコブの入学を許可した。ただし、それには二つの条件がついていた。一つは中学卒業程度の学力試験を受けること、もう一つは同級生と同じ時期に聖職衣の着衣はしないで、十分に善意が試されたあとに時期を決めて着衣することであった。

しかし、ヤコブの父ミケレは、ヤコブをアルバ神学校に入学させることについては、あまり乗り気ではなかった。

その十月のある日、父ミケレは、ケラスコのモンテ・カプリオロ農場の借家で、たった今、ご飯と豆を食べ終えてから、ブドウ酒をごくりといっぱい飲みほしたところであった。よごれた口ひげをふいたあとで母テレサに言った。「テレサ、さっきの豆はおいしかったよ。麦をとったあとにできたあれかい」「そうです」「ところで、ヤコブはどこに行った」「ケラスコの教会のモンテルシノ神父さまの所へ挨拶に行ったのでしょう。ヤコブは明日、アルバの神学校へ行くと言っていましたから」「神学校だって! もう一度行くのかい?ブラで失敗したのに……。あれはいつもがんこだな。まったく強情だよ、司祭になれる見こみがないのに。行きたいなら、行ってしまえ!だが、わしは、もうびた一文も学費はださんからな!」テレサは昨夜おそくまで、ヤコブのために衣服をつくっていたので、寝不足気味で目を赤らめていたが、小声で静かに答えた。「私がもう何羽か余計にめんどりを飼ってみます。毎日、三個のタマゴとおんどりを一羽売れば、月謝を払えるかもしれません」「好きなようにしたらいいだろう。自分の考え通りにする者は、自分で金を払えばよい」「ヤコブはもう一度、ためしてみるつもりでしょう。司祭になるのが神の思し召しであれば、成功するでしょう。神の思し召しがなければ、自分で納得して帰ってくるでしょう」「ためしなんか、もうじゅうぶんやったはずじゃない!」

父ミケレは顔をくもらせ、怒ったように帽子をがくっとかぶり、台所から出て畑へ行った。

翌日、朝食のあと、質素な食堂でヤコブは両親にお別れの挨拶をした。母のテレサはエプロンのすそで涙をふいていた。父と兄はヤコブをアルバ神学校まで連れて行くことにした。三人は牛車に乗り、ヤコブの衣服や食料品を積んでケラスコを出発した。母は大通りまで見送って行った。そして、母子はことば少なく、涙ながら別れた。

ストゥラ川(Stura)とタナロ川(Tanaro)の合流点に低くたれこめた霧のあいまに、秋の日ざしが畑一面に照り輝いた。三人は畑と牧場を左右に眺めながら、アルバ市へと向かった。

畑と畑の間にはポプラの木がそそり立ち、タナロ川のほとりには、アシがあちこちに茂っていた。もう少し進と、左手にチンツァーノ酒で有名なサンタ・ヴィットリ(Sanya Vittoria)の美しい小さな丘が連なっている。丘の一面にブドウ酒やナシやイチジクなどの果樹園が、道路のそばままでたれ下がっている。もう少しアルバの方面へ進と、中世紀の城と砦が、くっきりと見えてくる。一五○キロメートルぐらい行ってから三人は、アルバ市の入り口になっているタナロ川の橋のたもとまでやって来た。川の土手の上をヒヨコがよちよち歩き、古い石がきには鳥がとまってエサをついばんでいた。

やがて三人は、アルバ市内にはいり、司教座聖堂内で、しばらく祈ったあと、アルバ神学校へ行った。その神学校の応接間で三人が会ったのは、ひょろ長い、禁欲肌の神父であった。この神父こそ、のちにヤコブの哲学、教理、倫理の教授、霊的指導者となり、ヤコブを支え、励まし、その事業を助けたフランチェスコ・キエザ神父(一八七四年―一九四六年)であった。

アルベリオーネ神父の回想録は、キエザ神父について、こう述べられている。「司教座聖堂参事会員、キエザ神父は、ドイツ人、イギリス人、フランス人と親しくし、なかりの間、かれらと生活を共にした。神学、哲学、民法、教会法の学士号を持ち、人文科学の広い知識(あらゆる細部にわたるものではないが、諸科学の原則、使用、応用、目的など)を合わせ持っていた。
キエザ神父は天国に行ったら、宇宙大の心を持って使徒聖パウロにおともして、永遠の真理であるキリストへの永遠の賛美に加わることを楽しみにしておられた。」

アルバ神学校の運動場では、神学生たちが割り合い声高に遊んだり、話し合ったりしていた。その一人が、突然現れたヤコブを見て、笑いながら仲間に言った。「おい見ろ、こいつは牛を連れて勉強に来たぞ!」。これに対しヤコブは、すばやくやり返した。「牛が、私の本を食べなくてよかったよ。」ピエモンテ地方では「牛が本を食べる」という言い方をするが、それは勉強をやめてしまうという意味である。のちにアルベリオーネ神父は、以上の試練をふりかえって、こう述べている。
「あなた方の生活の中で、唯一の失敗は、困難に際して負けてしまうこと、いなむしろ戦いをやめてしまうことである。人間にとって、戦いながら死ぬことは勝つことであり、戦いを法規すれば負けることになる。敗者の場所は地獄である。知るため、真理のために戦うことは苦労のかいがある。」

次に、このアルバ神学校には、どのような校風があり、そこからヤコブは何を学び、何を体験し、どのように司祭としての道を歩んで行ったかを考えてみよう。

・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年

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現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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