蒔かれた種をいただく心という種 年間第15主日(マタイ13・1〜23)

私たちは、各々タレントを頂いています。たとえば、芸術に優れている人、語学に堪能な人、周りの人を和ませることが得意な人、人の話しをしっかり聴くことができる人、料理が上手な人、リーダーシップに長けている人などなど、たとえ、本人は気がついていなくてもタレントを持っていることでしょう。

ですから、私たちは、「あの人は、自分にないものを持っていて良いな」というように、思わなくてもいいのではないでしょうか。パウロは、「被創物だけでなく、初穂として霊をいただいているわたしたち自身も、神の子の身分、つまり、体の贖(あがな)われることを待ち焦がれて、心の中で呻いています。」(ローマ8・23)と言っているように、私たちの中には、おん父からいただいた素敵な【初穂】を頂いているのだと思います。

きょうのみことばは、「種蒔きの喩え話」の場面です。イエス様は、湖のほとりに座っておられた時に、集まって来た群衆に向かって舟に乗られ、座って多くの喩え話しを語られます。ここには、いくつかのシンボルが現れているようです。パレスチナでは、湖というと魚という糧を得る所と同時に悪霊が住む所という意味で恐れられてもいました。そこにイエス様は、【舟】に乗られて人々に話されます。当時のキリスト者にとって【舟】は、教会を意味するものでした。ですから、この箇所は、イエス様が乱れた、穢れた社会の中に【舟】という教会から、みことばを伝えられたということを現しているとも取られるのではないでしょうか。

もう一つは、「イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆はみな、岸辺に立っていた。」という箇所です。イエス様は、舟に乗られているので「立って」話されるより座った方が安定して安全です。しかし、イエス様が「座る」というのは、安全という意味ではないようです。マタイ福音書は、ユダヤ人たちに向かって書かれたと言われています。ですから、マタイにとってイエス様は、ラビとして描かれているようです。たとえば、イエス様が山上の説教を人々に話される時も「イエスは人々の群れを見て、山にお登りなった。そして、腰を下ろされると、弟子たちが近寄って来た。」(マタイ5・1)とあります。パレスチナでは、ラビが人々に教えを話す時には、座って話されていたようです。

イエス様は、群衆に向かって「種蒔きの喩え」を話されます。私たちは、この「譬え話」を聞く時にいつも不思議に思うのではないでしょうか。私たちは、作物を作ろうとすると、まず、土地を耕し、土を整え畝(うね)を設けてからから、種や苗を植えます。しかし、当時のパレスチナ地方では、その種が実るかどうか別にしてとりあえず種を蒔いたようです。ある意味、自然に対する信頼と言うことなのかもしれません。また、このことは、イエス様のいつくしみの愛とも言えるでしょう。イエス様は別の箇所でも「天の父は、悪人の上にも善人の上にも太陽を昇らせ、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5・45)と言われています。イエス様は、一見無駄に思われるような「道端」の状態の人に対しても、「みことば」という種を蒔かれてくださる方なのです。

イエス様は、群衆にとって「種蒔き」という身近な譬え話を使われます。この話しを聞いた群衆は、「私は、道端や荒れ地ではなく、善い地なのだ」と思ったのではないでしょうか。しかし、イエス様は、ご自分の話しを聞いている人の顔を見ながら、彼らの傲慢な心に気づかれたのでしょう。それで「耳のある者は聞きなさい」と最後に付け加えたのではないでしょうか。

弟子たちは、イエス様が譬え話をされた後に、「なぜ、喩えであの人たちにお話しになられるのですか」と尋ねます。イエス様は、彼らに対して「譬え話」の説明をされます。弟子たちは、イエス様の説明を聞いて、一つひとつの「蒔かれた土地」の状態を思い浮かべたことでしょう。私たちは、ある物事を行うとき、そのことの理由、状態を知った上で行う方が、より身に付くのではないでしょうか。きっと、弟子たちは宣教するうえで助けとなったことでしょう。

この喩えで用いられた【土地の状態】は、私たち一人ひとりの状態と言っていいでしょう。私たちは、時には、「道端」や「岩地」あるいは、「茨の中」という状態なのかもしれません。大切なことは、「私の今の状態に気づく」ということではないでしょうか。私たちが「私は、土地も耕し、栄養を与え善い土地にしています。私は必ずあなたの種を実らせますよ」と思っていたとしたらそこには、【自我】という傲慢な心が現れているのではないでしょうか。イエス様が言われる「善い土地」というのは、蒔かれた種の実りを謙遜な心で受け入れ、実りに感謝する人のことではないでしょうか。私たちは、いつでもイエス様からの【種】を「善い土地状態」で受け入れることができるように、謙遜な心を保つことができたらいいですね。

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