自分の十字架を担うという種 年間第13主日 (マタイ10・37〜42)

私たちは、人間的に考えて能力的にも体力的にも限界を感じた時に、誰かに「丸投げ」をすることがあります。私も、「あっ、無理だ!!」と思う時、「神様、後はよろしく」とお願いをすることがあります。ある神父様から「皆さんは、神様に『丸投げ』をすることがおありだと思いますが、それは、自分が何もしないのではなく、自分たちがやるべきことをすべてやった上で、神様に『丸投げ』をしなければならないのですよ」と言われたことがあります。

少し前に初めて、私は青年たちの「祈りの集い」の指導をする機会を頂きました。その集いのテーマは、「いただいた恵みに気づく ——マインドフルネスを用いて——」というものでした。私はある機会があってイエズス会の柳田神父様から「ヴィッパサナー瞑想(マインドフルネス)」を指導して頂いていたのですが、それを私が用いながら青年たちとの「祈りの集い」を行うことを企画したのです。この「ヴィッパサナー瞑想」は、「よく観る」という仏教用語ですが、英語では、マインドフルネスと言われ、日本語では、「気づきの瞑想」と言われるようです。この「ヴィッパサナー瞑想」とは、「今、この瞬間の感覚・感情・思考に価値判断を入れることなくあるがままに気づくことで、感覚・感情・思考と自分を切り離し、心の解放(心の自由と平和)を図る」というものです。

私は、この「祈りの集い」を行うその日まで、「うまくいくだろうか」という不安で一杯だったのですが、神父様の言葉を思い出して「これまで、精一杯やって来たのだから、神様後はあなたが何とかしてください」と祈ることができました。結果は、皆さん心から喜んでくださって、無事「祈りの集い」を終えることができました。

きょうのみことばは、イエス様が弟子たちに対して「宣教の心構え」のお話の最後の部分です。イエス様は、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。」と言われます。私たちにとって【家族】は、とても大切なものですし、十戒の中にも「お前の父と母を敬え。」(出エジプト20・12)とあります。イエス様が言われていることは、「十戒」と矛盾するような教えに思われます。しかし、ここで見落としていけないのは、「わたしよりも」という言葉です。イエス様は、宣教するにあたって、私たちが家族に心が偏ってしまうこと、宣教の妨げとなってしまうことへの注意をしているのではないでしょうか。イエス様は「時には『宣教』か『家族』か、と選ばなければならないときが出て来るということもある」と言われているのかもしれません。

次にイエス様は、「自分の十字架を担ってわたしの後に従わない者は、わたしにふさわしくない。」と言われます。さて、私たちにとって、このイエス様が言われる【自分の十字架】とは、どのようなことなのでしょう。時々、何か障害を抱えている人、苦しみに直面している人に「それは、あなたの十字架ですね」と会話をすることがあるかと思われます。私たちが【自分の十字架】と言う時、自分の欠点や罪、または、さまざまな困難などを指して【自分の十字架】と使うときがあります。ただ、このように考えてみますと、【自分の十字架】がネガティブな方へ傾いているような気がいたします。イエス様は、「愛」のお方ですから私たちに【自分の十字架】を、「苦しいもの、避けたいもの」としてお与えになられるでしょうか。

確かに、私たちは生活をする中で様々な問題や困難さは出てきますし、矛盾や、不条理に悩むこともあります。しかし、それも【自分の十字架】と思われますが、イエス様がここで言われているのは、【宣教する】ということにおいてということではないかと思うのです。イエス様は、「自分の命を得ようとする者はそれを失い、わたしのために命を失う者は、それを得る。」と言われます。イエス様は、私たちが福音宣教をする際に「物惜しみすることなく自分の時間、労力、能力など、自分のすべてを使いなさい」と言われているのではないでしょうか。このことが、「わたしのために命を失う者」と言ってもいいのかもしれません。

私たちは、洗礼の恵みを頂いた時に、イエス様の弟子として【福音宣教】を行う使命を頂いています。私たちは、年齢を問わず「自分の生活の中」で、「生き方」で【福音宣教】を行わなければならないのです。そして、その中で大切なことが、【自分の十字架】を担うということだと思うのです。パウロは、「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちもまた、新しい命に歩むためです。」(ローマ6・4)と伝えています。イエス様は、まず、ご自分が十字架を担われ復活されたように、私たちの【十字架】を使って、【新しい命】をくださるのではないでしょうか。私たちは、【自分の十字架】を担いながら【福音宣教】に励むことができたらいいですね。

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