聖母のみ心

聖母のみ心の記念日は、1944年、第二次世界大戦が終わりへと向かう中、教皇ピオ12世が制定しました。典礼暦の中では、イエスのみ心の祭日の翌日に祝われます。マリアをはじめ、聖人の記念日は、原則的に日付が固定されていますので、年によって移動する珍しい記念日と言えるでしょう。それだけ、イエスのみ心との結びつきを重視しているということです。

「心」は、聖書の中で、非常に広範で重要な役割が与えられています。単に、感情の動きをつかさどるところとしてではなく、思いや決意、行動などをつかさどる場と考えられています。心は、特に愛のはたらきと強く結ばれています。さらには、神との出会いの場、神とのかかわりを実現する場としての意味合いもあります。それは、イエスが最も重要なおきてとして取り上げておられる(マルコ12・30)、申命記6・5によく現れています。「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。これは、自分の全体を使い尽くして主である神を愛するようにとの教えですが、「心」が最初に言及されています。

さて、前述したように、聖母のみ心の神秘は、イエスのみ心の神秘に深く結びつけられています。イエスのみ心の祭日の集会祈願は──これは「イエスのみ心」について記したときに触れたことですが──「聖なる父よ、あなたは人類の罪のために刺し貫かれた御子のみ心のうちに、限りないいつくしみの泉を開いてくださいました。わたしたちが、心からの奉献によってキリストの愛にこたえることができますように」とあります。イエスのみ心の神秘は、御父がわたしたちに示され、イエスがその生涯をとおして証しされた、かぎりない愛、憐れみ、いつくしみの神秘であると言えます。その愛にわたしたちがこたえることができるようにと祈るわけです。この神の愛への応答を第一に生きた方がマリアです。「心からの奉献によってキリストの愛にこたえた」マリアの、その心を記念し、わたしたちもマリアに倣うことができるよう祈るのです。

ところで、聖母のみ心の記念日には、ルカ福音書2章41−51節が朗読されます。ヨセフとマリアが、12歳になったイエスを連れて、過越祭にエルサレムへ行ったときのエピソードです。祭りが終わって、一行はエルサレムを出発しますが、イエスはエルサレムに残ります。ヨセフとマリアは、イエスが一行の中にいるものと思って出発し、一日の道のりを歩いてから、イエスがいないことに気づきます。そこで、彼らはイエスを捜しながらエルサレムへ引き返すのです。

彼らの心の動きについては、具体的に何も記されていません。しかし、「三日の後」、神殿の境内でイエスを見つけたという表現は、さまざまなことを語っているように思えます。一日で行った道のりを引き返すのに三日もかかっているのです(もちろん、エルサレムについてから捜し回った時間もあるでしょうが)。彼らは、あたりをくまなく捜しながら、道を引き返したことでしょう。だからこそ、三日もかかってしまったのです。大人でさえ、追いはぎにあうような道中です。ヨセフもマリアも、イエスのことが心配でしかたがなかったことでしょう。今年はC年で、イエスのみ心の祭日に、ルカ福音書15章3−7節の「いなくなった羊」のたとえが朗読されますが、このときのヨセフとマリアの心は、いなくなった羊を必死になって捜しに行く主人公の思いに通じるものがあったことでしょう。わが子を思う父親、母親の切実な愛情、それがヨセフとマリアの心でした。

しかし、この日の典礼は、これが「聖母のみ心」であると言っているわけではありません。ルカ福音書のエピソードはさらに続き、イエスを叱責するマリアに対して、イエスは「どうしてわたしを捜したのですか」と言うのです。まるで、マリアの母親としての愛の心が否定されているかのようです。イエスは続けます。「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と。つまり、イエスは真の父である神との関係をヨセフとマリアに突きつけるのです。ルカ福音書は、はっきりと「両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった」と述べています。

とても神秘的なエピソードです。このエピソードのどこに「聖母のみ心」を見いだせばよいのでしょうか。マリアは、母親としてイエスを愛し、イエスのことを思ったからこそ、必死になってイエスを捜し回りました。イエスは、そのこと自体を否定しているわけではありません。しかし、すべてを父である神との関係のもとにとらえなおすよう招かれるのです。「とらえなおす」というよりも、「まず神のことを考えて、すべてをそのもとでとらえるようにする」と言ったほうがいいかもしれません。

どんなすばらしい愛情であっても、人間の思いが神の思いと同じであるとはかぎりません。むしろ、異なる場合がほとんどと言ってよいでしょう。時として、それは神の計画に反することがあります。イエスがご自分の死と復活について、初めて弟子たちに語られたときに、ペトロがイエスをいさめたエピソード(マルコ8・31−33)を思い出してください。ペトロは、イエスのことを思えばこそ、イエスをいさめたのです。しかし、その「思い」は神の計画に沿うものではありませんでした。イエスの叱責の言葉はそのことを明らかにしています。「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。マリアもイエスのことを思っていました。しかし、それは神の思いのもとでなされたことではなかったのです。「神のことを思うこと」、それこそが神の愛に対する人間のこたえとして求められていることなのです。

神の思い、神の計画は、わたしたちの思いを超えているため、すべてを理解することはできません。わたしたちには、つらいこと、避けたいことと感じられる場合もあるでしょう。ヨセフとマリアが理解できなかったように。ペトロや弟子たちが理解できず、結局、十字架のもとにとどまることができなかったように。

しかし、マリアは「これらのことをすべて心に納めて」(ルカ2・51)いました。確かに、マリアであっても、神の計画をすべて理解できたわけではありません。それでも、マリアはすべてを心に納め、思いめぐらし、神の思いを学び、身につけていきました。これが「聖母のみ心」なのだと思います。マリアは、さまざまな体験を神の計画として思いめぐらすことにより、母親としてイエスを愛する者から、人間の思いを超えた神の思いを受けとめて、十字架の愛でイエスを愛する者へと変えられていったのです。

「良かれと思っておこなったのに」、「あなたのことを思えばこそしたことなのに」。わたしたちがときどき感じることです。それが自分本位で独善的なものである場合は論外ですが、多くの場合、それは本当に純粋な愛情からなされたことなのだと思います。しかし、どんなにすばらしい思いや愛情であっても、神の計画から出るものでなければ、そして人間の思いだけによるものであれば、それは真の愛とは言えないのです。わたしたちもマリアに倣って、神の計画を思いめぐらす心を身につけることができるよう、マリアの取り次ぎを願いたいと思います。

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