イエスのみ心

イエスのみ心の祭日は、聖霊降臨の主日の翌々週の金曜日に祝われます。

この日の集会祈願で、私たちは次のように祈ります。

「聖なる父よ、あなたは人類の罪のために刺し貫かれた御子のみ心のうちに、限りないいつくしみの泉を開いてくださいました。わたしたちが、心からの奉献によってキリストの愛にこたえることができますように」。

この祈りには、「イエスのみ心」の祭日の意味合いがよく表れているように思います。いつくしみに満ちた神は、わたしたち人間のためにあらゆることを行なってくださいましたが、そのわざは愛するひとり子イエスを送るという行為で頂点に達しました。イエスの愛の心は、神の愛の心を表しており、その愛の心はイエスの生き方全体に、また特に十字架上のいけにえの死に表れ出ました。こうして、私たちはイエスの生涯を見る時、そこに私たちに対する神の愛のすばらしさを実感することができるようになりました。ご自身に対する無理解・非難をすべて受け入れ、命をかけてまで罪人の私たちを救おうとなさる方を見つめることによって、私たちがこの愛に包み込まれていることのすばらしさに感激し、私たちもこの愛の心を身につけ、イエスと同じように生きたいという思いに駆り立てられるのです。

さて、イエスのみ心の祭日の朗読は、A・B・C年によって異なります。今年はC年にあたるため、福音朗読ではルカによる福音15章3〜7節の「見失った羊」、「いなくなった羊」のたとえが読まれます。

このたとえは、ファリサイ派の人々や律法学者たちの不平(非難)に対する答えとして語られた3つのたとえの最初に置かれています。彼らの非難は「この人(=イエス)は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」というものでした。食事というのは命の糧を受ける場ですから、食事を共にするとは命全体を共有することを意味していました。つまり、罪人と共に食事をすると、その人の罪をも共有してしまうと考えられたのです。イスラエルの民は、神の民としていただくという恵みを受けたことを自覚していましたから、この恵みにとどまり、できるかぎり神にふさわしい者となるよう心がける責任も感じていました。罪人と食事を共にし、自分も罪に汚れてしまうとすれば、それは神の恵みを捨て去ってしまうようなものです。だから、ファリサイ派の人々や律法学者たちにとっては、理解できないことであり、あってはならないことなのでした。

これに対し、イエスはたとえを語り、ご自分が罪人たちと食事を共にする理由を教えようとします。100匹の羊を持っている人がいます(「飼っている」ではないことに注意しましょう。この人は雇われた羊飼いではなく、羊の所有者です)。そのうちの1匹を見失ってしまいます。すると、この人はどうするでしょうか。他の99匹を野原に残して、見失った羊を見つけ出すまで捜し回らないでしょうか(この問いかけは、「当然、皆そうするであろう」という答えを要求するものです)。そして、見つけたら、大喜びで連れ帰り、仲間と共に喜ぶはずだ、というたとえです。そして、これは罪人に対する神のなさり方と、その悔い改めがもたらす天での喜びを表すたとえであることを、イエスは述べるのです。

つまり、神は罪人を排除される方ではなく、むしろ罪に陥り、滅びへの道をたどる人々を必死になって捜し求めないではいられないお方であるということ、そして罪人を見つけては大喜びで連れ帰ってくださるお方であることを、たとえは教えようとしているのです。そして、イエスの生き方が、神に反する生き方であるどころか、まさに神のこの強い思いを実践する生き方であることを示唆しているのです。その上で、ファリサイ派の人々や律法学者たちに対して、イエスの行動に表れる神のみ心を理解するように、そして彼らもそのように行動するように招いているのです。

さて、私たちは、自分をいなくなった1匹の羊に当てはめる時、自分に向けられた神のいつくしみ深いみ心を感じます。自分は弱く、いつも罪を犯してしまう、とても救いにふさわしいとは言えない者です。それなのに、神は私を絶えず心にかけ、危険を冒してまで私を捜し回り、ご自分のもとに連れ帰ってくださいます。神は、何とすばらしい恵みを私にくださっているのか……。たとえを聞いていた罪人たちも、きっとこのように感じ取ったことでしょう。

しかし、同時に私たちは、このたとえが直接はファリサイ派の人々や律法学者に対して語られていることも見過ごすことができないと思います。つまり、自分をファリサイ派の人々や律法学者たち(たとえで言えば「野原に残された99匹の羊」)にも重ね合わせてみるということです。私たちは、神のいつくしみが理由なく自分に向けられる時、大きな喜びを感じます。神の愛に心から感謝したい気持ちになります。しかし、同じように理由もなく他の人に向けられたらどうでしょうか。私たちは、ほとんどの場合、そのような神の恵みを不当であると感じます(しかも、ほとんどの場合、無意識のうちにです)。「私はこれだけ苦労して、神の掟を守っているのに、どうしてこの人に恵みが与えられるのだろう。私のほうが恵みを受けるのにふさわしいのに」。「神が罪人の回心を重視するのはわかる。でも、だからと言って、私たち、まじめに生きている人たちを放ったらかしにしていいはずがない」。

ファリサイ派の人々や律法学者たちは、罪人へと向かっていくイエスを認めることができず、不満を感じました。しかし、それが実は神のみ心を認めないことを意味すると、たとえは指摘しているのです。とすると、私たちもイエスの姿に表れる神のいつくしみ深いみ心をそのまま受け取ることはできていないのかもしれません。このたとえの招きに応えて、自分以外の人々に神のみ心が向けられる時も、神と共に喜ぶことを通して、本当の意味で神のみ心、イエスのみ心を受け入れることができるようになりたいと思います。

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