主の昇天

主の昇天の祭日は、本来は、使徒言行録の記述にしたがって(1・3−)、復活の主日から40日後に祝われます。ただし、日本も含めて多くの国では、週日に教会に集まって荘厳なミサを行うことが難しいため、次の日曜日(復活節第7主日)に主の昇天を祝うことにしています。

「主の昇天」は、イメージしやすいものであると同時に、理解をするのが難しい神秘です。主が天に上げられたことを意味するのですが、しかし空間的な意味で上のほうに行かれたということではありません。わたしたち被造物の世界を超越する神の「場」(「場」という言葉も空間的な意味をもっているため、ふさわしい表現ではないのですが)に行かれたということなのです。イエスは、人となり、確かに弟子たちとともに生活をなさいました。そして、復活後、何らかの形で弟子たちのもとを離れ、父である神のもとへと行かれたのです。一方が、人間の世界であり、感覚的に体験することのできる世界ですから、わたしたちにもイメージができるわけです。しかし、イエスが行かれた先は、わたしたちの能力を超えるところですから、わたしたちの理解を超える神秘であり、霊の導きにしたがって深める必要がある神秘なのです。

いずれにせよ、復活のイエスは、わたしたちと感覚的、肉体的にともにい続けることをなさらず、もはやそのような形ではイエスと出会うことのできないところへ移られました。そこでわたしは、学生時代によくこんな疑問を感じていました。「イエスはせっかく復活されたのに、なぜそのまま、見える形でわたしたちのもとにとどまることをなさらなかったのだろうか」。「なぜ、弟子たちを置いて、自分だけ天に行ってしまわれたのだろうか」。

聖書は、この「昇天」の神秘について、さまざまな表現を用いています。「天に昇る」、「栄光に上げられる」、「栄光を受ける」、「御父のもとに帰る」……。つまり、御父との関係、神としての栄光といった点が重要な意味を持っているようです。

教会がイエスの教えや生き方から学びとったこと、それは、救いの神秘の完成のためには、イエスが御父のもとに戻り、永遠から持っておられた神としての栄光を再び受ける必要があるということでした。イエスが単に人間として死んで復活するだけではなく、栄光へと上げられ、本来の神としての「場」、御父の右の座に座り、その救いの恵みですべてを支配することこそ、わたしたちの救いであることを理解したのです。感覚的、肉体的にイエスが地上にとどまってくださることよりも、たとえ目には見えなくても、栄光に上げられて、その完全な救いの力をすべての人に及ぼしてくださることこそがすばらしいということを理解したのでしょう。昇天によるイエスとの別れは、喜びに満ちています。イエスの死による別れ、すなわちあの悲しみと落胆の別れとは根本的に異なります。ルカ福音書は、イエスが天に上げられたときの弟子たちの終わることのない喜びと賛美について記しています。「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(ルカ24・52−53)。

昇天は、単にイエスが「元のさやに収まった」ということでもありません。この方は、人となられた方なのです。栄光のうちにおられるイエスは、もはや人となられる以前の神ではありません。まことの神であると同時に、まことの人でもあるのです。イエスのうちに、被造物にすぎない人間性が神の完全な栄光にあずかっているのです。これこそが、ゆるぐことのないわたしたちの希望なのです。

もちろん、イエスはわたしたちからまったく離れてしまわれたのではありません。確かに、感覚的、肉体的にはイエスはわたしたちとともにおられません。しかし、もっと近いあり方で、イエスはわたしたちとともにおられるようになったのです。それが聖霊降臨であり、洗礼の秘跡における聖霊の注ぎです。イエスの霊がわたしたちの中にとどまり、生きています。イエスは、わたしたちと分かたれることのない方となられたのです。こうしてイエスは、聖霊をとおしてわたしたちを導き、ご自分の栄光の力をわたしたちに与え続けておられるのです。ルカ福音書や使徒言行録が、イエスの昇天と聖霊の約束を密接に結びつけている(ルカ24・49、使徒言行録1・4−5、8)のも、このためなのでしょう。

さて、主日の周期がC年は、第一朗読で使徒言行録1・1−11が、福音朗読でルカ24・46−53が読まれます。ご存じの方も多いと思いますが、ルカによる福音書と使徒言行録は同じ著者によって書かれたと考えられています。しかし、主の昇天については、この2つの書の間に大きな相違が見られるのです。

冒頭に記したように、使徒言行録によれば、主の昇天は復活の日から40日後に起こったとされています。「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」(1・3)。そしてこの後、イエスは「天に上げられ」(1・9)ました。

ところが、ルカ福音書によれば、イエスの昇天は復活の日に起きているのです。ルカ24章に記された復活の日の出来事を追っていくと、まず婦人たちが墓へ行き、そこで体験したことを使徒たちに話します。それを聞いたペトロは墓へ行きます。一方、二人の弟子たちがエルサレムからエマオへと向かい、途中でイエスと出会います(彼らはイエスと気づきません)。エマオへ到着すると、食事のときにイエスだと分かり、すぐにエルサレムへ引き返します。エルサレムで、ほかの弟子たちにこのことを証言していると、イエスが現れます。そして、弟子たちと食事をし、教えを述べ、「そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福……しながら彼らを離れ、天に上げられ」(ルカ24・50−51)ます。すべての出来事は、復活の日に起こっています。

いったい、どう理解すればよいのでしょうか。別の人が書いているならともかく、同じルカが福音書では、復活の日に昇天があったと記し、使徒言行録では40日後にあったとしているのです。これは、わたしの解釈なのですが、おそらくルカ福音書と使徒言行録は視点が違うのだと思います。

ルカ福音書は、復活の一日を終わることのない永遠の一日として描いているようです。24章の最後には「絶えず」という言葉が用いられていて、この一日が終わったとは記されていません。また、ルカは24章の前半では時間的表現を詳しく記しているのに(「週の初めの日の明け方早く」1節、「ちょうどこの日」13節、「そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いています」28節)、途中から時間的枠組みを記さないばかりか、明らかにこれを無視しています。そもそも、日が暮れそうだからと言ってイエスを引き止めた弟子たちが、その後すぐにエルサレムまでの10キロ以上の道のりを引き返していますし、その後の記述を考えると、昇天の時刻は真夜中ということになってしまいます。この時間的枠組みに関する転換点に置かれているのが、エマオでイエスがパンを裂いたときに、弟子たちがイエスだと分かり、心が燃えていたことに気づいてエルサレムに引き返す決心をした場面です。イエスが復活なさっただけでなく、弟子たちがこの復活のイエスに出会い、イエスの十字架上の死と復活の意味を理解して信じた瞬間、落胆していた弟子たちがイエスの復活の力に燃やされたあの瞬間に、時間的枠組みは消えてしまいます。弟子たちは、イエスとともに救いの神秘の永遠性を生きるようになったのです。

その一方で、使徒言行録はイエスの復活後、歴史の中でイエスを証ししていく教会の姿を描いています。そこでは、復活の40日後にイエスが天に昇られ、さらにその10日後の「五旬祭の日」(使徒言行録2・1)に聖霊が降ります。

両者の違いは一見すると「矛盾」のように思えますが、おそらくイエスの死、復活、昇天という過越の神秘の二面性を表しているのではないでしょうか。一方で、この神秘は被造物の世界を超えた永遠性を持っています。それは、時間で区切ることのできない一体のものであり、わたしたちはイエスを受け入れることによってこの永遠性をすでに生きています。その一方で、イエスの神秘は歴史の中で現実に起きた出来事であり、わたしたちは時間の流れの中でこの神秘を証ししていくよう招かれています。「永遠」と「時間」。この一つにすることのできない二面性を伝えようとして、ルカはあえて異なる二つの描写をしているのではないでしょうか。

西洋の言葉では、このことを「すでに」と「まだ」という表現で表すことがあります。イエスの死、復活、昇天の後、そして聖霊を受けた後、わたしたちは「すでに」時間を超越した永遠の救いを生きているのであり、同時に「まだ」歴史の中を歩みながら、ほかの人々もこの永遠の救いに入ることができるよう尽力しているのです。主の昇天の祭日にあたり、ルカ福音書と使徒言行録の記述をとおして、わたしたちが今生きているこのすばらしい神秘を少しでも深めることができればと思います。

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