受け入れるという種 受難の主日(マタイ27・11〜54)

私たちにとって「苦しみ」や「痛み」とは、どのようなものなのでしょうか。きょう私たちは、「主の受難」を黙想いたします。【受難】とは、「難」を「受」けると書きます。このように考えますと、私たちは、「どおして、私だけ非難されなければならないのか」とか「なぜ、私はこのような病気になったのだろう」とか、自分や相手を責めてしまいがちです。

では、イエス様はどうだったのでしょうか。私は、イエス様の【受難】は、「『難』を『受ける』ではなく、『難』を『受け入れる』ではないか」と思うのです。イエス様は、私たちの罪を贖うためにすべての【難】を【受け入れられた】のではないでしょうか。ここには、イエス様の“いつくしみの愛”があると言ってもいいのかもしれません。

きょうのみことばは、マタイ福音書の「イエス様の受難」の場面です。マタイ福音書は、イエス様の「苦しみ」を強調して描いているようです。しかも、祭司長や長老たちがようやくイエス様を捕らえ、十字架につけられるという、彼らの勝利のような書き方です。彼らは、ピラト総督の前で、イエス様に対して「不利な証言」を申し立てます。さらに、彼らは、「バラバを釈放し、イエスを殺す」ように群衆を説き伏せます。これらは、まさに人間の罪の醜さです。

ピラトは、彼の妻から「あの正しい人と関わりを持たないでください。昨夜、あの人の夢を見て、たいへん苦しみました」と頼まれます。彼は、妻の伝言を聞き何とかしてイエス様を助けようと試みます。マタイ福音書には、イエス様の誕生のお告げや東方の博士、そしてエジプトへの避難のお告げなど「夢」を用いています(1・20、2・12、2・13)。この「夢」というのは、神様の介入と言われています。おん父は、ピラトの妻の「夢」を通してイエス様のことを「正しい人」ということを伝えられたのではないでしょうか。ピラトは、何とかしてイエス様を救おうと「ほねをおります」が無駄に終わってしまいます。ここに人間が「何とかしよう」という“限界”があるような気がいたします。イエス様の裁判は、人間の妬みという“醜さ”と人間の力だけで何とかしようという“限界”が交差しているように感じます。

イエス様の「受難」は、まだまだ続きます。イエス様は、裁判の後に鞭で打たれます。イエス様は、肉体的にも精神的にも極限の苦しみを【受け入れられた】のです。さらに、ローマ兵たちに「なぶりも」にされま、十字架につけるために引き出されます。ローマ兵たちは、シモンというキレネ人にイエス様の十字架を無理に担わせました。イエス様は、ここでも、彼が担っている苦しみを“いつくしみの愛”をもって【受け入れられた】のではないでしょうか。

イエス様は、「これはユダヤ人の王イエスである」という罪状書を掲げられて、2人の強盗の挟まれる形で十字架につけられます。もしかしたら、ここにもイエス様への【受難】があるのではないでしょうか。王様の左右には、位として第1、第2の家臣がついています。ゼベダイの子らの母が自分の息子を「……あなたの国で、一人はあなたの右に、一人は、左に着くように、お言葉をください」(マタイ20・21)と願う場面があります。イエス様は、「ユダヤ人の王」として、「強盗」を家臣として左右において最期を遂げることになったのです。

さらに、追い討ちをかけるように、十字架の下にいる群衆からは、「……もし神の子なら、自分を救ってみろ。」と言われ、祭司長たちも律法学者や長老たちとともに「十字架から降りて見るがよい。そうすれば、われわれは信じてやろう。」と冒涜の言葉を受けます。イエス様は、何も言わずに黙って彼らの言葉を【受け入れられた】のです。そして、最期に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われます。これは、詩編22章の冒頭の言葉です。この詩編は、イエス様の嘆きのように思われがちですが、最後に「わたしの魂は主のために生き、わたしの子孫は主に仕え、主のことを後の世代に伝えるでしょう。彼らは後から生まれて来る民に、主の正しさ、主の業を、告げるでしょう。」(詩編22・31〜32)という言葉で締めくくられています。イエス様は、詩編22の冒頭を言われることによって、ご自分の【受難】を【受け入れられた】のではないでしょうか。みことばの最後は、ローマ兵の百人隊長の「まことに、この人は神の子であった」という言葉で閉じられます。ユダヤ人たちではなく、異邦人であるローマ兵がイエス様を「メシア」として信じたのです。ここに「主の正しさ、主の業を、告げるでしょう。」というみ言葉が生きていると言ってもいいのではないでしょうか。

私たちは、イエス様の【受難】を通して、私たちが日常で受けている「苦しみ」「痛み」を振り返ることができるのではないでしょか。私たちは、ただ苦しみを【受ける】のではなくイエス様のように【受け入れる】ことができたらいいですね。

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