大切なことに目を向けるという種 四旬節第4主日(ヨハネ9・1、6〜9、13〜17、34〜38)

私たちの中には、善を行おうとする心と、悪を行おうとする心の2つの心があるのではないでしょうか。どちらかというと、善を行おうという心は、多少困難さが生じますが、悪を行おうとする心は、簡単に行うことができるような気がいたします。ただ、残念ながら一度悪の心を行い罪の状態に陥ってしまうとなかなか自分の力だけでは、もとに戻るのが難しい場合もあります。

パウロは、「わたしは自分の行っていることがわかりません。なぜなら、自分が望んでいることはせず、かえって憎んでいることをしているからです。……わたしは自分の望む善いことをせず、望まない悪いことをしているのです。……誰がわたしを救い出してくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。」(ローマ7・15〜25)と伝えています。私たちは、このパウロの言葉の中に希望を見出すことができるのではないでしょうか。

きょうのみことばは、生まれつき目が見えない人の目をイエス様が癒される場面です。みことばは、「イエスは通りがかり、生まれつき目が見えない人をご覧になった」とあります。イエス様の彼への眼差しは、きっと“いつくしみの愛”に満ちておられたことでしょう。イエス様は、彼をそのままほおっておくことがおできになれなかったのです。イエス様は、地面につばを吐き、そのつばで泥を作って、その人の目に塗られます。普通ですと、目が見えない人や悪霊に憑かれている人を人々がイエス様の所に連れて来たり、本人が自分を癒してくれるように願ったりします(マタイ9・27〜33、マルコ8・22・26)。しかし、このヨハネの箇所でイエス様は、この目が見えない人が願う前から彼を癒されます。その人は、イエス様の指が自分の瞼(まぶた)に触れられ「さあ行って、シロアムの池で洗いなさい」と言われたときどのように思ったのでしょうか。彼は、シロアムの池に向かいながら自分の罪深さを見つめ直したことでしょう。そして、この目を洗うということが「回心への一歩」だったのかもしれません。

この目が見えない人は、私たちと言ってもいいでしょう。イエス様は、私たちが罪の暗闇の中に陥り、苦しんでいる姿をほおっておくことがおできにならないのです。ですから、もう私たちが願う前からイエス様が私たちの瞼に触れ、罪の苦しみから解放してくださるのです。私たちは、イエス様の手の温もり、指先から伝わる優しさ、いつくしみを感じてみるのもいいかもしれません。

さて、近所の人々は、目が見えないが癒されている姿を見て信じられないようで「その人だ」とか「いや、似ているだけだ」とか言います。そんな言葉が飛び交う中、彼は、自分から「わたしです」と答えます。もう、彼は、今までのように周りの人から「罪人」と言われすさんだ心ではなく、自身に満ちた姿に変わっていたのです。それでも、周りの人は、そのことに気がつくことなく議論し、ファリサイ派の所に彼を連れて行きます。彼らは、「どのようにして見えるようになったのか」と尋ねます。ここから、ファリサイ派の人たちは、イエス様が、安息日に彼の目を癒されたということを巡って議論が始まります。

ファリサイ派の人たちは、彼に対して「……お前は彼のことをどう思うのか」と尋ねます。その人は、「あの方は預言者です」と答えます。きょうのみことばでは省かれていますが、ここからその人とファリサイ派の人たちとの尋問が始まります。そして彼の「……もしあの方が神のもとから来られたのではなかったなら、このようなことは何一つおできにならなかったはずです。」という言葉をきっかけにユダヤ人たちは、「お前は全身罪にまみれて生まれたのに、われわれに教えようとするのか」と言い、その人を外に追い出します。

不思議なことに、近所で彼のことを知っている人も、ファリサイ派の人々も、目が見えなかった人が癒されたことを“喜ぶ人”、「目が見えるようになって良かったね。おめでとう」と声をかける人はいなかったのです。むしろ、彼らは、イエス様が「安息日に人を癒した」というところ、あげくの果ては「罪人に説教された」ことに腹を立てて、彼を追い出してしまいます。このことは、とても悲しいことです。私たちは、時として彼らのように“大切なこと”に目を向けずに、的外れなところに目がいってしまうことはないでしょうか。少し私たちの心を振り返ってみてもいいかもしれません。

イエス様は、再び彼の所に歩み寄られ、「あなたは人の子を信じるか」と言われます。この「人の子」とは、メシア(救い主)のことです。彼は、「主よ、信じます」と信仰宣言をします。イエス様の言葉は、近所の人やファリサイ派の人たちと違って、温かく、その人の心を溶かし、慰める言葉でした。私たちは、イエス様の声に癒され、改めてイエス様の方に向き直ることができ、さらに、イエス様のように、周りの人に声をかけることができたらいいですね。

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