ミサにおける聖書の朗読箇所は現代に合わない?

ごミサの中で朗読される御言葉で、「現代には合わない」と感じるものがあります。たとえば「真夜中に友人を訪問する」たとえは非常識です。また「しつこく頼めば求めるものが与えられる」というのも、今ではまったく考えられないことです。「魚を欲しがる子どもに魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか」ともありますが、子どもを餓死させる親もいます。せっかくの御言葉の朗読ですから、もっと現代にピッタリする箇所を慎重に選んで、朗読したほうがよいのではないでしょうか。

朗読される御言葉に、時代に合わないものがあるというご指摘は、ごもっともです。

聖書は今から二千年から三千年ほども前に書かれたものですから、頓珍漢な表現や、躓きになる内容がたくさん含まれています。二千年前の人にピンときた御言葉が、私たちにはピンとこないということも十分考えられます。

加えて、ご指摘の箇所などは、イエス様が意図的に非常識なことをおっしゃった箇所ですから、私たちだけでなく、当時の人々にも非常識であったはずです。「らくだが針の穴を通る」や、「目に丸太がある」などの非常識な表現を、イエス様が意図的に用いておられることの真意を問う必要があります。

こうしたことから、御言葉を生きる糧とするためには、時として、適切なアドバイスが必要となります。非常識の躓きを乗り越えさせる、適切な導きです。御言葉の朗読後に説教が行われるのも、この適切な導きが必要だという認識があるからです。

それにしても、せっかくの御言葉の朗読です。誤解を生じない、誰にでもよくわかる御言葉を厳選して朗読したらどうかというご提案は、とても魅力的です。実際、朗読する聖書の章節の量を減らし、箇所を厳選して朗読していた時代もありましたが、最終的には、現在のように、誤解が生じやすいところも、そうでないところも、連続して御言葉を朗読するという方針にとって替わられました。

これは、誤解を生みそうな御言葉も、神様がくださったものとして尊重するためでした。私には不要と思われる御言葉でも、他の人には大切な御言葉として響くこともあります。現時点では、朗読箇所の選び直しを検討する以上に、御言葉を受けとめる私たちの側の努力が求められていると思います。

典礼において、御言葉を連続して朗読するという知恵は、ユダヤ教から学んだことでもありました。現在、ごミサにおける御言葉の朗読箇所は、全世界共通です。

将来、朗読箇所が変更される可能性は残されています。しかし、どのように変更されても、御言葉を適切に解説する必要は残り続けるでしょう。

●回答者=鈴木信一神父

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